世界が認めた教育者、パウロ・フレイレ
パウロ・フレイレについて語ることは、世界で最も名高い教育者の一人について語ることにほかなりません。このブラジルの哲学者にして知識人は、長年にわたり、市場経済が過度に重視する「成功」「競争」「専門化」といった功利的な概念よりも、人間の尊厳と価値を見失わない現代教育の指標となってきました。
教育学部において、フレイレの思想と視点は、優れた教育者のあるべき姿を示すABCとして常に議論の対象となります。しかし、その社会教育の視点は、教育をビジネスとして捉える現行モデルの定着に関心を寄せるメディアからは、しばしば軽視されてきました。本稿では、ラテンアメリカ教育の偉大な象徴である彼の生涯と業績を詳しく見ていきます。
幼少期と青年期
パウロ・レグルス・ネヴェス・フレイレ(Paulo Reglus Neves Freire)は、ブラジル軍警察官を父に、厳格なカトリックの信仰のもとで子を育てる母を母に持って生まれました。1921年9月19日、ブラジル北東部の都市レシフェで誕生した彼は、まもなく訪れる経済危機がブラジル社会のみならず、世界中の多くの共同体の基盤を揺るがそうとしていた時代に生きていたのです。
1929年10月24日、「暗黒の木曜日」として世界経済史に悪名を残すこの日は、後にラテンアメリカ、そして世界で最も重要な教育者の一人となる少年の運命を決定的に刻みました。フレイレが提唱した教育観は、学習者を取り巻く社会的環境の中に生徒を置き、その現実から切り離さないというものでした。すなわち、国や地域の社会環境ごとに応じた教育学体系の構築を目指したのです。
大学進学と教職への道
1941年、20歳となったフレイレは大学に進学して法学を専攻します。しかし、学位取得後も法律実務に携わることはほとんどありませんでした。家族の困窮した経済状況のため、生計を支えるために学業を中断せざるを得なかったなど、学業を完遂するまでには幾多の困難が待ち受けていたのです。
フレイレは早くから、社会の下層階級とその苦境に対する鋭い感性を育みました。社会の最も恵まれない層、とりわけその教育上のニーズを理解したいという強い関心は、生涯にわたり彼を突き動かす原動力となりました。第二次世界大戦終結前後の時期には、ブラジルの中等学校でポルトガル語を教える道を選び、この仕事に喜びを見出していきます。
労働組合との関わりとSESIでの活動
法曹界での歩みを終えた研究者は、生誕地であるレシフェ郊外に住む労働者たちの組合を支援することを決めます。1944年には小学校教師のエルザ・マリア・オリベイラと結婚しました。1986年に世を去るまで、彼女はフレイレの教授法の分析において、根幹をなす影響力を持つ存在であり続けました。
組合を通じて築いた人脈を活かし、フレイレは産業社会サービス機関(SESI)の教育文化部門の責任者の座を得ます。1954年には同機関のディレクターとして運営を担うまでになりました。しかし1964年、ブラジルに軍事独裁政権が樹立されると、彼の人生における極めて重要な一章が幕を閉じます。それまでの彼は、教育の民主化、学習者が社会において本来あるべき地位を取り戻すこと、そしてブラジル人口の大部分を占める貧困層の複雑な社会経済状況について、学生や家庭、政府への意識啓発を行うことに全力を注いでいたのです。
亡命生活と国際的評価
新しい軍事政権は、フレイレの教育方法論を「破壊的」かつ「扇動的」とみなし、祖国での活動継続は不可能となりました。二度の投獄を経験した後、この著名な教育家は祖国を離れ、5年間にわたりチリへ亡命します。チリではキリスト教民主党の農地改革運動や、国連食糧農業機関(FAO)のために働きました。
1969年にはハーバード大学の客員教授として招かれます。その2年前に出版された著書『自由としての教育』が、彼に待ち望んでいた国際的な評価をもたらしたのです。
主な著作
フレイレの代表的な著作には、以下のようなものがあります。
- 『ブラジルの教育と現代の諸問題』(1959年)
- 『識字と意識化』(1963年)
- 『被抑圧者の教育学』(1970年)
- 『意識と歴史』(1979年)
- 『イデオロギーと教育』(1981年)
- 『教育について』(1982年)
- 『民衆教育』(1982年)
- 『教育学――対話と葛藤』(1995年)
- 『自由への教育学』(1996年)
フレイレが残した遺産
パウロ・フレイレの遺産の豊かさは、彼が推し進めた革新的な学び方にこそあります。それは単に非識字者に読み書きを教えるにとどまらず、歴史的・社会的文脈の中で自らのアイデンティティを発見させ、その基盤の上に、各人が服従や押し付けを受けることなく、自らの意思で役割を選び取れる調和的で連帯的な社会を築いていくものです。
帰国と晩年
政治的大赦により、フレイレはブラジルへ帰国します。南米のこの国における総合的な教育の真の牽引者を見出した人々は、彼を熱狂的に迎え入れました。パウロ・フレイレは1997年5月2日、サンパウロにて75歳でこの世を去りました。しかし、その教育思想は今日なお世界中の教育現場に生き続けています。