古代の歴史

名誉革命の真相:イギリス議会はなぜ国王ジェームズ2世を廃位したのか

1688年に起こった「名誉革命(Glorious Revolution)」は、イギリス史における最大の転換点の一つです。議会はなぜ、自国の王であるジェームズ2世を退位に追い込み、新たな君主を迎えるという前例のない決断を下したのでしょうか。その背景には、宗教問題と政治権力をめぐる深刻な対立がありました。

ジェームズ2世の政策が引き起こした対立

1685年、兄チャールズ2世の死去に伴い王位を継承したジェームズ2世は、イングランドのプロテスタント体制や議会の権威と真っ向から衝突する政策を次々と推し進めました。

1. 宗教的不寛容

ジェームズ2世は熱心なローマ・カトリック教徒であり、プロテスタントを抑えてカトリックを優遇する政策を展開しました。これにより、宗教的自由の喪失を恐れる多くのイングランド人プロテスタントに強い警戒心を抱かせることとなりました。

2. 絶対主義的な統治姿勢

彼は「王の神権」を信奉し、議会の権限を抑えて自身の権力を拡大しようとしました。具体的には、議会の停止(プリローグ)、議会制定法の無視、カトリック教徒の要職への登用などを行い、議会の権威と憲法上の権利を脅かしました。

3. 人望の急落

さらに、ヨーロッパにおけるカトリック勢力への支援などもあり、国民の支持は大きく低下。王としての正統性そのものが揺らぎ始めていました。

オラニエ公ウィレムへの招待

事態を重く見たイングランドの貴族や政治家たちは、1688年、オランダの支配者でプロテスタントでもあるオラニエ公ウィレム(ジェームズ2世の娘婿)に対し、イングランドへ来てジェームズ2世を打倒するよう密かに要請しました。ウィレムはこれに応じ、同年11月、デヴォン州トーベイに軍隊を率いて上陸します。

名誉革命の経緯

ウィレム軍の進撃に伴い、ジェームズ2世への支持は瞬く間に崩壊し、彼は最終的にフランスへ亡命しました。そして1689年2月、議会はウィレムとその妻メアリー(ジェームズ2世の娘)を共同君主として即位させます。この一連の政変こそが「名誉革命」と呼ばれるものです。流血を最小限にとどめたことから「栄光ある革命」とも称されます。

憲法史上の大きな変革

名誉革命は単なる王朝の交代にとどまらず、イギリスの政治体制を根本から変える憲法上の変革をもたらしました。

権利章典(1689年)

この画期的な法律は、議会の権限を明確にするとともに、言論の自由、信教の自由、国王への請願権といった基本的な権利と自由を保障しました。

議会主権の確立

議会は君主に対する優越性を確立し、以後の国王は議会の定めた法律に従って統治することが義務づけられました。国王が法律を無視したり覆したりすることは許されなくなったのです。

まとめ

名誉革命は、プロテスタント体制の確保、王権の制限、そして近代立憲君主制と議会制民主主義の礎を築いた、イギリス史上極めて重要な転換点でした。「国王といえども法の上に立つことはできない」という原則は、ここに確立されたのです。