紀元前479年は、ペルシャ(アケメネス朝)とギリシャの都市国家連合が激しく衝突した、いわゆる「ペルシャ戦争(グレコ・ペルシャ戦争)」の決着の年でした。この年、ペルシャ軍はギリシャ本土への大規模な侵攻を行い、プラタイアの戦いとミュカレの海戦でギリシャ側に敗れています。では、なぜペルシャはここまで大規模にギリシャとの戦争を続けたのでしょうか。その背景を順を追って見ていきましょう。
ペルシャ帝国の拡大政策
アケメネス朝ペルシャは、キュロス2世以来、西アジアからエジプト、小アジア(現在のトルコ)までを支配する巨大帝国へと成長していました。ダレイオス1世の時代には、エーゲ海対岸のギリシャ系諸都市もすでに支配下に置かれていました。豊かな資源と交易路を手に入れるため、さらに西方への拡大を目指すのは帝国にとって自然な方針だったのです。
イオニア反乱が引き金に
紀元前499年、ペルシャ支配下にあった小アジアのギリシャ系都市(イオニア地方)が反乱を起こします。アテネなど本国ギリシャの一部の都市国家がこれを支援したことが、ペルシャの怒りを買いました。ダレイオス1世は「ギリシャへの懲罰」を掲げて紀元前490年に遠征軍を送りますが、マラトンの戦いで撃退されてしまいます。
クセルクセス1世の大遠征
ダレイオス1世の死後、王位を継いだクセルクセス1世は、父の遺志を継いでギリシャ再遠征を決意します。紀元前480年、空前の規模の陸海軍を率いてギリシャに侵攻し、テルモピュライの戦いではスパルタのレオニダス王率いる少数の部隊を突破しました。しかし、サラミスの海戦で艦隊に大きな損害を受け、ペルシャ軍の勢いに陰りが見え始めます。
紀元前479年:プラタイアとミュカレの敗北
翌紀元前479年、クセルクセス1世は本隊を帰国させ、残された将軍マルドニオスがギリシャ本土の制圧を試みました。しかし、スパルタ・アテネなどを中心とするギリシャ連合軍との決戦となったプラタイアの戦いでマルドニオスは戦死し、ペルシャ陸軍は壊滅的な打撃を受けます。ほぼ同時期、小アジアのミュカレにおいてもペルシャ艦隊がギリシャ連合艦隊に敗れました。
この二つの勝利により、ペルシャによるギリシャ本土侵攻の脅威は去り、戦争の主導権はギリシャ側へと移ることになりました。
まとめ:ペルシャが戦った理由
- 領土拡大と資源確保: エーゲ海やギリシャ本土の富と交易路を手中に収めたかった。
- 反乱への報復: イオニア反乱を支援したアテネなどへの懲罰という名目があった。
- 帝国の威信: 大王の権威を内外に示すため、西方征服は重要な政治課題だった。
つまり、紀元前479年の戦いは、ペルシャの拡張主義と報復の意志、そしてそれに対するギリシャ側の独立を守ろうとする抵抗がぶつかった結果といえます。この戦争以降、ペルシャは攻勢を失い、逆にギリシャ、とりわけアテネがデロス同盟を結成してエーゲ海の覇権を握っていくことになるのです。