考古学的発見

ワット・クラチャン――バンラマット運河沿いに佇むバンコクの古寺の歴史と見どころ

ワット・クラチャンは、タイ王国バンコク・タリンチャン区に位置する、現在も活発に活動が続けられている寺院です。バンラマット運河の北岸にあり、ワット・トーンから西へ約100メートル、チャックプラ運河から西へ約1.5キロメートルの場所に建っています。

立地と周辺環境

寺院周辺は典型的な沖積平野で、都市化が進んだ住宅街の中にあります。密集した住宅地と庭園地帯が混在する環境で、南側にはバンラマット運河が流れています。運河沿いという立地は、水上交通が生活の中心だった時代のバンコク西部ならではの風景です。

水路と地質

主な水路はバンラマット運河とチャオプラヤー川です。地質学的にはバンコク平野に属し、第四紀に堆積した土砂によって形成された土地で、全体的に標高の低い湿地性の地形が広がっています。

寺院の歴史

ワット・クラチャンはマハーニカーヤ派に属する一般(ラート)寺院です。タイ宗教省の記録によると、1783年頃に建立されたとされ、創建者や当初の名称は不明とされています。1787年頃にウィスンカームシーマー(正式な戒壇の承認)が授けられたと推定されており、土地を盛り上げて境内を整え、周辺の村人たちが協力して寺を建てたものと考えられています。

時代区分としては、アユタヤ時代末期からラッタナーコーシン(バンコク王朝)時代にかけての歴史を持つ宗教施設です。なお、近隣には「ワット・クラダンガー」と呼ばれる小さな寺があり、かつてはこの二つの寺が村人から「長老の寺」として親しまれてきましたが、ワット・クラダンガーは現在廃寺となり、跡地には人々が暮らしています。

境内の主要な建造物

本堂(ウボソット)

本堂はバンラマット運河に面して東向きに建ち、運河と平行に配置されています。1970年の調査では「古い戒壇堂であり、後期アユタヤ様式の基壇や波形瓦など、正統なアユタヤ様式の特徴が残る」と評価されていました。しかし旧堂は1978年頃に取り壊され、現在はコンクリート造りの新本堂が建っています。側面に各5枚、正面に2枚、背面に1枚の窓が設けられています。

かつての回廊壁は赤砂岩製と考えられていましたが、現在は新しく造り替えられており、基壇を含む元の壁は寺院の塀へ移設されました。堂内には旧本堂から受け継がれた仏像群が安置され、中央には瞑想姿の本尊仏がまつられ、台座の上に約20体の古い仏像が並んでいます。その多くは砂岩製とみられています。

礼拝堂(ウィハーン)

礼拝堂は本堂の背後(西側)にある2階建ての建物で、上層部は木造、1階部分はコンクリート造りです。1978年頃、元の木造パビリオンを改修したものと考えられています。礼拝堂の裏手にはバンコク地域学習センターが併設されています。

堂内には八角形の台座を持つ古い説法台があり、台座の周囲にはラーマーヤナ物語を描いた絵画が施されていました。しかし天井よりも高くなってしまったため、現在は頂部を外して脇に置かれています。

元住職の祠堂

説法堂の前、バンラマット運河沿いに位置するコンクリート造りの建物で、元住職であるプラ・アージャン・ヤムとプラクルー・サンカラーラック(トゥアン)の肖像が祀られており、地元の人々の信仰を集めています。

僧房(クティ)

僧房は境内の西側、運河を挟んで聖域(ブッダワート)と僧侶生活区域(サンガワート)が分かれた場所にあります。床を高く上げたタイ様式の平屋木造建築です。

鐘楼

旧鐘楼はチーク材を用いた古式の建築で、胴部には精緻な木彫りの装飾が施されていました。一方、新しい鐘楼はレンガとモルタル造りで、四隅に3本ずつ計12本の柱が立ち、美しい装飾がほどこされています。

信仰対象と歴代住職

水亭のそばには、村人たちの篤い信仰を集めるソムデット・インドラ(帝釈天)とヨム神(閻魔王)の像が置かれています。「イン様」はインドラ神、「ヨム様」はヤマ(閻魔王)を指す呼び名です。

歴代住職は、初代のプラ・アージャン・イェー、次いでプラクルー・サンカラーラック(トゥアン)、そして1965年から2004年まで務めたプラサムー・フォン・ウィチャラータンモー、現住職のプラクルー・シッティパッタナクン(ポンプロム・チットクノ)と続いています。

火葬施設にまつわる歴史

かつてタリンチャン地域では、葬儀の際にだけ仮設の「メラ(火葬小屋)」を組み立てるのが慣例でした。1967年頃から恒久的な火葬場の建設が普及すると、メラの部材は放置されて朽ちることも多く、一部の寺院では必要とする人々に木材を譲ることもあったといいます。

2005年3月、先代住職プラサムー・フォン・ウィジャランダンモーの荼毘に付す際、彼自身が生前優れた工匠でしたが、ワット・クラチャンには自前の火葬場がありませんでした。そのため、トゥウィワッタナー区のワット・コームット・プッタランシーからメラを借り受け、仮設の火葬壇を設営して儀式が執り行われたという記録が残っています。