オランダの考古学者チームが、同国南部で古代ローマの将軍ユリウス・カエサルによる戦闘の跡とみられる遺構を発見したと発表しました。『ガリア戦記』に記された伝説の戦いの現場が、ついに姿を現した可能性があります。

「来た、見た、勝った」――伝説の戦場が姿を現す
2015年12月11日、アムステルダム自由大学(VU)の考古学者ニコ・ロイマンス氏が、オランダ・ノルト・ブラバント州のケッセルおよびヘーレワールデン周辺での発見を公式に確認しました。鉄器時代研究の第一人者である同氏によると、現場からは剣や槍の穂先といった大量の武器とともに、紀元前1世紀に年代づけられる人骨が多数出土したといいます。
これらの遺物は、当時ローマのプロコンスル(属州総督)であったカエサルがガリア征服戦争を進めていた紀元前55年に行われた戦年に行われた戦闘の跡だと考えられています。発掘された約100体分の人骨には、武器による傷の痕跡が明瞭に残っていました。この激戦でローマ軍団は、二つのゲルマン部族を壊滅させたとみられます。
「カエサルとその軍団の存在が、オランダの領域内で明確に実証されたのは今回が初めてです」とロイマンス氏は語ります。

ケッセル(オランダ)の戦場跡から出土した人骨。カエサルの軍団と二つのゲルマン集団が対峙した地とみられる。© アムステルダム自由大学
容赦なき殲滅
ライン川東岸に起源を持つゲルマン二部族――テンクテリ族とウシペテス族は、同じゲルマン系のスエビ族に追われる形で川を渡りました。彼らはカエサルに亡命を求めますが、願いは退けられます。カエサルは8個軍団に命じ、彼らを容赦なく殲滅したのです。
「今日の基準で言えば、これはジェノサイド(集団虐殺)と呼ぶべき出来事だろう」と研究者は付け加えます。一方、著書『ガリア戦記』の中でカエサル自身は(あくまで勝者としての言葉ですが)、ゲルマン人の騎兵が休戦を欺いて破った末にローマ兵へ先制攻撃を仕掛けたと主張しています。その報復は凄惨を極めました。カエサルは、陣営への奇襲によって男も女も子どもも逃げ場を失ったことを、微塵の感情も込めずに記しているのです。
「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici)

ケッセル(オランダ)の遺跡から出土した剣と武器類。© アムステルダム自由大学
『ガリア戦記』第4巻に記された戦い(第14章・第15章)
[4, 14]
(1)カエサルは軍を三列に布陣すると、8ローママイルの急行軍を行い、ゲルマン人が事態を悟る前にその陣営へ到達した。
(2)我々の神速な到着と指揮官の不在に突如として恐怖に襲われた彼らには、協議する時間も武器を執る時間もなく、混乱のうちに我々へ打って出るべきか、陣営を守るべきか、逃れて命を拾うべきかを判断できなかった。
(3)彼らの恐怖は叫びと大きな混乱となって現れた。前日の裏切りに憤る我々の兵士たちは、陣営へ殺到した。
(4)すばやく武器を手にできた者たちは必死に抗戦し、戦車や荷車の間で戦った。
(5)しかし、子どもや女たちの大群(ゲルマン人は国土を離れる際、全財産を携えてライン川を渡っていた)は四方八方へ逃げ散り、カエサルは騎兵に追撃を命じた。
[4, 15]
(1)背後から響く叫び声と、同胞が虐殺される光景を目の当たりにしたゲルマン人は、武器を投げ捨て、軍旗を放棄して陣営から脱出した。
(2)マース川とライン川の合流点に至ったとき、逃走の続行を断たれ、多数の者が斃れた後、残存者は川へ飛び込み、恐怖と疲労と激流の勢いに圧倒されて果てた。
古代ローマ史の権威でソルボンヌ大学(パリ)名誉教授のヤン・ル・ボエック氏は、著書『ローマの戦争』の中で次のように語っています。大プリニウス(23~79年)は、カエサルの才知への賛辞を述べた後、驚くほど現代的な一節を残しました。ガリア戦争の死者を119万2000人と推定した上で、「このような人道に対する罪をもって、彼に栄光の称号を与えることはしない」と記したのです。
知識の箱:軍団(レギオ)とは
重装歩兵部隊である軍団は、平均約5000人(戦時には6000人、平時には4000人となることもある)で編成されました。10個のコホルス(大隊)に分かれ、各コホルスは3個のマニプルス(中隊)、さらに6個のケントゥリア(百人隊)から成ります。また、ケントゥリオン(百人隊長)に従う騎兵132名を擁し、この数は後の皇帝ガリエヌスの時代(218~268年)には726名へ増強されました。なお、勘定をする方のために付言すれば、ケントゥリアは決して100名ではなく、およそ60名で構成されていました。各軍団は、軍団の称号・番号・愛称という三要素によって呼称されます。例えば「第3アウグスタ軍団(Legio III Augusta)」のような具合です。
※本データはヤン・ル・ボエック著『ローマの戦争』に基づきます。