地球史学者であり、パリ・ディドロ大学名誉教授でもあるクリスチャン・グラタループ氏は、長年にわたり惑星規模の重大な出来事を読み解き続けてきた。グローバル・ヒストリー(大域的世界史)の専門家である同氏に、21世紀最初のパンデミックとなった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の危機について話を聞いた。

クリスチャン・グラタループ氏は、2007年の「プトレマイオス賞」を受賞しており、近年では『世界の歴史アトラス』(2019年)を上梓したばかりである。
「どこにいて、何をしていたか」を語れる出来事
――新型コロナのパンデミックを知ったとき、最初の反応は?
まずは、その出来事への即座の自覚でした。つまり、「あの時自分はどこにいて、何をしていたか」と後から語ることができる類の出来事です。それが世界のどこで起ころうとも関係ありません。2001年9月11日の米国での同時多発テロ、2015年11月13日のパリとサン=ドニ、2016年7月14日のニースでのテロ攻撃もそうでした。こうした出来事は、全員が同時に生命の安全を脅かされたわけではないにせよ、私たちに直接関わり、道徳的にも政治的にも影響を及ぼします。
しかし、新型コロナのパンデミックは事情が異なります。脅威が誰一人残さず、日常の中へと忍び込んでくるのです。どんなに些細な行為さえも危険になり得るし、致命的にもなり得る。始まりの時期は特定できても、終わりは不透明なままのこの時代が「歴史の教科書に載る」ことは、当初から分かっていました。その意味で、戦争のレトリックが過度な比喩であるとは言えません。狙撃や爆撃のリスクの中で暮らした社会――ベイルート(レバノン)やサラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)など――は、状況としてはこれに近いと言えます。ただし、戦争の方が明らかにはるかに残忍であるという大きな違いはあります。そしてこの並行論はここで終わりです。軍事紛争の原因は厳密に社会的なものであって、生物学的要因は存在しないからです。
ウイルスの伝播路は14世紀のペストと同じ
――このパンデミックの急速な世界的拡散については、何が印象に残りますか?
二つ目の顕著な特徴は「速さ」です。病気の広がりの速さだけでなく、「リアルタイム」の情報、さらには科学研究に関する情報までもが瞬時に届く速さでもあります。もちろん専門家は、航空輸送によるウイルス伝播の速度を事後的に分析するでしょうし、中国からイタリアへの拡散は古典的な事例研究となるはずです。
私が特に印象づけられるのは、新型コロナウイルスがたどった経路が、14世紀にヨーロッパを荒廃させた黒死病(ペスト)と同じだという事実です。確かに、この中世の大パンデミックの発生源については今なお議論がありますが、中央アジアのどこか、あるいはヒマラヤ山麓あたりだったと考えられています。そして13世紀以来、最初に最も甚大な被害を受けた地域は中国でした。その後、Yersinia pestis(ペスト菌)を保有するノミが、シルクロード沿いを、ネズミや人間、布地や毛皮とともに移動していったのです。

1348年の黒死病。ポール・ルーギュール『フランス百景の歴史』(1891年)より版画。©Leemage/AFP
ペストが、1346年に黒海沿岸のジェノヴァ領カッファを包囲していたジョチ・ウルス(金帳汗国)の軍隊にまで及ぶには、長い歳月を要しました。モンゴル軍は城壁越しにペストで死亡した死体を投げ込むという、原始的な細菌戦によって包囲網の内側の人々を汚染しました。逃げ出したジェノヴァ人とともに病原菌も運ばれ、コンスタンティノープルに感染が広がり、そこから中東全域、さらに東アフリカの海岸部へと伝わりました。1347年にはイタリアのメッシーナとジェノヴァが襲われ、続いてヨーロッパ全土へと拡大します。当時のイタリアは、シルクロードの西側の終着点だったのです。

13世紀の航海図(ポートラン)の一部。シルクロードを行く隊商が描かれている。© Leemage/AFP
旧世界におけるこの東から西への感染の旅は、決して最初のものではなく――6世紀から8世紀にかけての「ユスティニアヌスの疫病」と呼ばれる悲劇的な出来事を思い起こされたい――最後のものでもありませんでした。19世紀のコレラ・パンデミックはガンジス川流域から出発し、当時の閣僚会議議長(首相)カジミール・ペリエも1832年にその犠牲となっています。そして、クリストファー・コロンブス以降、アメリカ大陸の諸社会が旧世界とつながると、感染経路はさらに複雑になりました。早くも1493年には、アメリカ由来とされる梅毒の蔓延が確認されています。スペインで始まり、イタリア経由でヨーロッパ全土に広がり(フランス人はこれを「ナポリ病」と呼びました)、やがて全世界へ達しました。1917年のいわゆる「スペインかぜ」も、実際には米国から始まったものです。
国家ごとの反応の違い――全体論的社会と個人主義的社会
――特定の国々に固有の振る舞いはあるのでしょうか?
今日、人の住む世界(エクーメネ)は、地域社会とグローバル・レベルとの間で絶えず緊張状態に置かれています。このジレンマは政治的には、グローバリズム対主権という形で現れます。しかし、パンデミックの特徴は、汚染の雲のように、あらゆる地政学的な国境を無視することにある。「中国の万里の長城をもってしても、ウイルスの大群は止められない」のです。
とはいえ、各社会はそれぞれ独自のやり方で、しかも足並みの乱れたかたちで対応しています。WHOの権限は純粋に情報提供の域を出ないものであり、流行の初期には中国外交に牽制され、危機の真っ只中には米国の資金削減によって弱体化させられました。すでに揺らいでいた欧州の「連帯」は、コロナウイルス最大の副次的被害者の一つとなったと言えるでしょう。
その結果、今日すべての社会がほぼ同一の問題に直面している以上、時間差こそあれ、各国の集団としての特質が鮮明に表れることになりました(気候環境に由来する違いもあるかもしれません)。全体として見れば、国家の役割が再評価されました。非常に自由主義的な政府(米国、オランダ、ブラジルなど)の対応は、フランスのようなコルベール主義的(重商主義的)な国々に比べてはるかに遅かった――フランスの対応が不安定だったことを割り引いても、です。ただし後者の国々は、その代償として、集合的決定への配慮を減じざるを得ませんでした。
こうして見ると、最も明瞭な対立軸は、古典的な社会学の枠組みを借りれば、全体論的社会と個人主義的社会との間に形成されつつあるように思われます。中国当局はそれを権威主義体制擁護のプロパガンダのテーマに変えようとしています。しかし、際立っているのは政治体制よりもむしろ、集合的な社会行動なのです。韓国や台湾といった民主主義国家の対応は、中国の一党支配やシンガポールの権威主義的民主主義のそれと、それほど変わりませんでした。逆に、プロテスタント文化の影響が強い自由主義的な社会(北欧、英国、米国)は、少なくとも危機の初期段階では、高い死亡率を冒してでも「自然免疫」なるもの、一種の医療市場の法則に委ねる傾向がありました。
「疫病危機の翌日」――歴史が示すこと
――疫病の危機が去った後の人々の行動について、歴史は何を語っていますか?
まず言えるのは、私たちが今回の危機で目にしている行動が、過去のパンデミック時に見られたものと非常によく似ているということです。ジャン・ドリュモーの『西欧の恐怖』(Fayard、1978年)を読めば分かるように、非合理なものへの逃避は常に存在します。奇跡へのほんのわずかな望みがあれば、人々は常識も批判精神も忘れ去ってしまうのです。ヒドロキシクロロキンの処方は、COVD-19の一部の症例で有効である可能性はあるかもしれませんが、科学者たちの議論を見る限り、明らかに万能薬ではありません。
だからこそ、「翌日」には、他の疫病の後に続いたものと共通の特徴が現れると想像できるのです。1832年から33年のコレラ流行でパリだけでも1万9000人が亡くなった後に訪れたような、数か月、いや「狂ったような一年」を覚悟しなければなりません。

アルフレッド・ジョアノ(1800-1837)作。1832年のパリ・コレラ流行時、オルレアン公がオテル=デューを訪れ病人を見舞う様子。©Leemage/AFP
実際、1834年には大通り(ブールヴァール)の生活が熱狂的に花開きました。劇場はかつてなく満員になり、カフェのテラスは以前よりもさらに混み合いました。「リアルタイム」という言葉があるように、「リアルスペース(現実の空間)で」という、あらゆる出会いへの渇望、消費への熱狂が表面化したのです。
また、COVD-19危機の教訓は、些末な部分を除けば、ほとんど学ばれないだろうことも予想されます。マスクの備蓄は増えるでしょうが、根本的な問い――病院の慢性的な疲弊や、隣接諸国、特にEU加盟国同士に必要な連帯――はすぐに忘れられるでしょう。15世紀から18世紀にかけて風土病となっていたペストと、それがもたらした恐怖は、国境沿いに数多くの壁や検疫所を建設させましたが、その多くは期待された予防効果とは正反対の結果をもたらしました。むしろ、経済的打撃への対応に早くも追われるあまり、国際的な結束は強化されない可能性が高い。そして、多国籍の生産チェーンのいくつかの糸をほどいたところで、パンデミックが必然的に地球規模の現象であるという事実は、たちまち忘れ去られてしまうのです。