歴史上の人物

イェルク・インメンドルフ:絵筆を操る指揮者

1980年代、イェルク・インメンドルフ(Jörg Immendorff)はドイツ現代美術を代表する、最もよく知られた画家の一人となりました。彼の絵画、彫刻、版画は、賛否両論を呼ぶ激しい議論の火種となりました。ニーダーザクセン州出身のこの画家は、2007年にその生涯を閉じています。

文:ミヒャエル・ケーラー(Michael Koehler)

インメンドルフはオペラ舞台のために制作することも多く、人生においても壮大なオペラと力強いパフォーマンスを愛していました。「若い頃からクラシックバレエに親しみ、昔から舞台やオペラに惹かれていました。いつしか作品の中でも情景的な要素を保ち続け、絵筆で指揮をするような感覚を持つようになったのです」と、インタビューで語っています。

イェルク・インメンドルフ:「物事に心をかき乱される」

世界を一つの大きな舞台として見るこの視点は、1960年代初頭、師テオ・オットー(Teo Otto)によって目覚めさせられました。リューネブルク近郊のブレッケデに生まれた画家は、まずオットーに舞台美術を学び、1964年からはデュッセルドルフ美術アカデミーでヨーゼフ・ボイスの、おそらく最も有名な弟子となりました。

インメンドルフの絵画には、スローガンや「画家よ、どこにいるのか?」といった画家の社会的立場への問いかけがしばしば描き込まれます。「私はただ社会的な問題に関心があるだけです。物事に心をかき乱されるんです……」と、彼は自身の姿勢について説明していました。

「カフェ・ドイツラント」— 1970年代の政治的連作

生涯を通じて、彼を単なる「腕の良い舞台美術家」と見なす者もいました。一方で、彼こそ1970年代最重要の政治的画家だと考える人々も今なお少なくありません。いずれにせよ、彼は戦後ドイツを代表する最も著名で国際的に成功した芸術家の一人でした。多くの人にとって彼の名といえば、1970年代半ばの政治画の連作「カフェ・ドイツラント(Café Deutschland)」を思い浮かべるでしょう。彼はインタビューでこう語っています。「私はドイツ分断を地球規模の問題として捉えていました。つまり、衝突しかけている二台の世界自動車の緩衝材としての二つのドイツ国家、ということです。この問題の爆発性を理解しようとしない人たちが、私には理解できませんでした。」

ヨーゼフ・ボイスの最も著名な弟子

1960年代の学生運動や抗議運動の中から登場したインメンドルフは、毛沢東主義者でした。当時それはおしゃれであり、ほぼ必須のものでもありました。また彼はその頃、「芸術のための芸術(l'art pour l'art)」としての絵画にはもはや存在意義がないと考えていました。20世紀を代表するパフォーマンスアーティストの一人であるヨーゼフ・ボイス(1921〜1986)は、作品の中で哲学的テーマに取り組みました。

あらゆる芸術は社会的・政治的にコミットすべきである――そう考えた彼を後押ししたのが、師ヨーゼフ・ボイスでした。インメンドルフはかつてこう回想しています。「ある絵に不満があって、上から塗りつぶし、線で消して、下に『絵画をやめろ!』と書き込んだんです。ちょうどその瞬間、ボイスがデュッセルドルフ美術アカデミーのスタジオに入ってきて言ったんです。『そのままにしておけ、イェルク、素晴らしい絵だ!』と。」

インメンドルフは、エネルギッシュなプロセスを創作の中心的テーマとしたパフォーマンスアーティストにして美術理論家のヨーゼフ・ボイスから、エネルギーと炎の語彙を受け継ぎ、それを社会的関与へと転化させました。彼は最後までその姿勢を貫きました。「私が教えるのには理由があるのです。若者たちとの交流が必要なんです。彼らは私に再び勇気を与えてくれます。彫刻家ヴィルヘルム・レームブルックは、これを『火の種を渡す』という美しい言葉で言い表しました。」

闘病が変えたインメンドルフの作品

筋萎縮性の疾患が公表され、自ら絵を描くことが次第に困難になるにつれ、話題をさらう出来事が増えていきました。セックスパーティー、コカイン、そして中国で脳に注入した幹細胞などが報じられました。2000年には30歳年下のブルガリア人画家オダと結婚し、娘にも恵まれました。やがて病気の影響もあって、「野獣」と呼ばれた男を取り巻く騒動は静まっていきました。

2007年、デュッセルドルフでは、ゲルハルト・シュレーダー元首相がインメンドルフの描いた肖像画を受け取りました。ベルリンの首相官邸にある「首相画廊」のための無期限貸与の作品でした。

彼の絵画には自伝的な転回が現れました。最後の作品たちは様相を異にし、ほとんど神秘的ですらあります。そこにはフランシス・ピカビアからの影響、死の使者を思わせる謎めいたイメージがあり、70年代のような扇動宣伝(アジプロ)はもうありませんでした。元首相ゲルハルト・シュレーダーとの友情は、首相官邸のための油彩肖像画という非公式な依頼へとつながりました。最後まで彼は自らに絵を描き続けろ、梯子を登れと励まし続けました。「画家用の梯子には『勝利』という言葉も書いています。いつも鬱に落ちないようにするためです。それは当然のことですが、同時に真剣なことでもあるんです。私が納得できる絵を一枚仕上げることは、一種の勝利なのです。」

「良い絵は魔法を生み出さなければならない」

今日、1970年代後半の「カフェ・ドイツラント」連作を所蔵しない美術館を見つけるのは難しいほどで、それはドイツ現代美術コレクションの定番となっています。連作にはドイツ分断と戦後の現実が描かれ、様式的にはスローガンや抗議の叫びがしばしば見られます。そしてそこには一匹の小猿も登場します。これは皮肉な自画像としての画家自身です。「良い絵は鑑賞者とともに救済を成し遂げます。良い絵は魔法を生み出さなければならないのです。」

画家にして美術教授のイェルク・インメンドルフは、2007年5月28日、デュッセルドルフの自宅で61歳の生涯を閉じました。

イェルク・インメンドルフ 略歴

  • 1945年6月14日、リューネブルク近郊のブレッケデに生まれる
  • 1963〜1964年 デュッセルドルフ美術アカデミーにてテオ・オットーに舞台美術を学ぶ
  • 1964年 デュッセルドルフ美術アカデミーのヨーゼフ・ボイス教室に入学
  • 1968〜1980年 デュッセルドルフで美術教師として勤務
  • 1981〜1985年 ストックホルム、ケルン、ミュンヘンなど各地で客員講師を務める
  • 1987〜1988年 オークランドに滞在
  • 1989年 フランクフルト・アム・マイン国立造形芸術大学の教授に就任
  • 1996年以降 デュッセルドルフ美術アカデミーの教授を務める
  • 1997年 ザルツブルクのヨーロッパ科学芸術アカデミー会員に選出される
  • 2007年5月28日 デュッセルドルフで死去