歴史上の人物

ルーシー・ストーン――アメリカのフェミニスト、奴隷制度廃止運動家

ルーシー・ストーンとは

ルーシー・ストーン(Lucy Stone、1818年~1893年)は、アメリカのフェミニストであり奴隷制度廃止運動家です。マサチューセッツ州出身の女性として初めて大学の学位を取得した人物であると同時に、結婚後も結婚前の姓を名乗り続けた最初のアメリカ人女性としても知られています。

フェミニストとしての最初の闘い

農家の8番目の子どもとして、1818年8月13日にマサチューセッツ州で生まれたルーシー・ストーン。幼い頃から兄弟姉妹とともに労働に従事させられた彼女は、家庭内における性別による役割分担や、母親に対する父親の権威主義的な態度に、早くから疑問を抱くようになりました。

16歳のとき、家族の生活を支えるために近隣の村で教師として働き始めます。1837年にはパクストンで代用教員を務めましたが、男性の正規教員が受け取る給料の半分しか支払われていないことに憤りを覚えました。抗議の結果、昇給は実現したものの、それでも男性の給与には及ばないままでした。

奴隷制度廃止運動との出会い

1838年、ルーシー・ストーンは女子大学に進学し、代数学、歴史、地理、論理学、文学などを学びました。ただしその条件として、在学期間中に働いて得られたであろう収入に相当する金額を父親に返済することが求められました。この時期に彼女は、奴隷制度廃止を訴える刊行物『ザ・リベレイター(The Liberator)』と出会っています。

しかし同年、22歳の若さで亡くなった姉の葬儀のため帰郷するよう呼ばれたルーシーは、大学へ戻ることを断念し、亡き姉が遺した二人の娘の世話をするため同居することになりました。教師として働きながら父親への返済を済ませ、ラテン語、文法、数学の個人指導も受けました。さらに、公の場で奴隷制について語り、奴隷の境遇を女性の状況になぞらえて訴えた二人の女性廃止論者、アンジェリーナ・グリムケとサラ・グリムケの著作を読み、深い感銘を受けます。その後、通っていた教会が「奴隷制について語る目的で女性が説教壇を使うこと」を禁じた出来事も、彼女の思想形成に大きな影響を与えました。

フェミニスト・廃止論者としての演説活動

1843年8月、ルーシー・ストーンはオーバリン大学に入学します。そこで親交を結んだのが、当時女性には門戸が開かれていなかった牧師職を目指していた、フェミニストで廃止論者のアントワネット・ブラウンでした。二人はそれぞれ奴隷制廃止運動家の兄弟と結婚して義姉妹となり、ルーシーは結婚後も夫の姓を名乗りませんでした。女性が公の場で発言することを許されなかった時代、二人は女性だけの秘密の弁論サークルを立ち上げています。そして1846年8月1日、奴隷制廃止協会の招きにより、ルーシーは初めて公の場に姿を見せました。以降、講演者として生きていくことを決意します。家族は翻意を促しましたが、彼女は信念を貫き通しました。

1847年6月にオーバリン大学を卒業したルーシーは、主に経済的な事情から教職に戻ると同時に、奴隷制廃止と女性の権利に関する講演を開始します。その雄弁さはたちまち注目を集め、アメリカ反奴隷制協会の講演者として採用されました。しかし雇用側からは、講演に女性の権利の問題を持ち込むことへの不満がすぐに表明されたため、彼女は週末には奴隷制廃止の講演を、平日にはフェミニズムに関する講演を行うという形で折り合いをつけました。

1852年には、実用性を重視して髪を短く切り、ゆったりとしたブルーマー(ブルーマー・スタイルのズボン)を身につけるようになります。すると街中で若い男性たちにつけ回されたり侮辱されたりするなど、多大な社会的圧力にさらされることとなりました。女性の権利の活動家として禁酒運動にも関わり、アルコール依存症の夫との離婚を女性に認めるべきであると主張しました。

晩年と遺したもの

ルーシー・ストーンは1893年10月19日にこの世を去りました。その生涯の功績は高く評価され、全米女性の殿堂(National Women's Hall of Fame)に顕彰されています。