歴史上の人物

マリオン・グレーフィン・ドンホフ――勇気をもって自らの意見を貫いた伝説のジャーナリスト

マリオン・グレーフィン・ドンホフは、ナチス政権に積極的に抵抗し、戦後ドイツで最も影響力のある論客と評された人物です。ハンブルクゆかりの彼女は、週刊誌「ディー・ツァイト(Die Zeit)」の方向性を決定づけました。

文:シュテファニー・グロスマン

喪失、抵抗、そして逃走に彩られた人生

マリオン・グレーフィン・ドンホフの人生は、喪失、抵抗、そして逃走の歴史でした。故郷の東プロイセンを失い、愛する家族や友人たちを次々と失いました。ナチズムへの抵抗運動に身を投じ、当時「男性の領域」とされていた世界へ果敢に足を踏み入れた一方で、彼女は終始、自らの階級、出自、そして女性としてのアイデンティティに深く根ざし続けました。この二面性は幼少期に始まり、かつてドイツで最も影響力のあるジャーナリストと呼ばれた彼女の人生全体を貫いていきます。

孤独な少女から自信に満ちた女性へ

1909年12月2日、マリオンはケーニヒスベルク近郊にある一族の居城フリードリヒシュタイン城で、7人きょうだいの末っ子として生まれました。しかし末っ子ながら甘やかされて育ったわけではありません。むしろ両親との関係は疎遠で、母リア・グレーフィン・ドンホフとはやや冷めた関係でした。これは、母が身分にふさわしい「コム・イル・フォー(comme il faut)」という封建的な振る舞いを重んじていたことも一因でしょう。外交官兼政治家だった父アウグスト・グラーフ・ドンホフは、マリオンが9歳のときに亡くなりました。彼女が父についての第一印象を改めるのは、ずっと後のことでした。視力が弱かった父はいつも読み聞かせをしてくれる子どもを探しており、兄姉たちは上手にかわすのに、幼いマリオンは毎日「タイムズ」や「フィガロ」、「フランクフルター新聞」などを父に読み聞かせていたのです。

マリオンは障害を抱える姉マリアと親しく育ちました。兄姉からはしばしば叱責され、家庭内で受けられる承認は総じて少なく、彼女は自身を「部外者」だと感じていました。幼い頃から非常にプロイセン的で規律を重んじ、理性と感情を切り離す一方で、もう一つの顔も持っていました。荒々しく、抑えがたい性格です。著作家アリス・シュワルツァーは伝記『マリオン・ドンホフ――抵抗の人生』の中でこう述べています。「そして生き延びるために、忘れられた少女は型破りなお転婆へと花開いたのでした」。伯爵令嬢でありながら、彼女は馬小屋や大自然で過ごすほうを好み、木登りをしたり、御者から指笛の吹き方を習ったりしていました。

そんな静かな孤独に満ちた幼少期から、ある日突然、彼女は解放されます。救いの手を差し伸べたのは、隣接する荘園に住む従兄のハイニ・フォン・レーンドルフとその妹シッシーでした。3人の子どもは定期的に家庭教師の授業を受け、それ以外の時間はマズール地方の田園地帯で過ごしました。マリオンは解放感を得て、自信をつけていきます。家庭内での立場も好転しました。姉のクリスタとイヴォンヌは結婚し、マリアは教会施設ベーテルに送られ、長兄ハインリヒは従軍していきます。残った二人の兄クリストフとディーターとは親密な友情で結ばれました。「きょうだいや従兄妹と過ごした幸福な年月の中で、彼女の愛のイメージが形作られた」とシュワルツァーは記しています。彼女はこの「きょうだいの愛」の夢を生涯追い求め続けました。

家政学校を経て博士号取得へ

幼少期の緊張と対比は、その後の人生をも左右します。母の反対を押し切って高等學校に進んだ彼女は、ポツダムの男子校にただ一人の女子生徒として入学し、1928年に優秀な成年に優秀な成績でアビトゥーア(大学入学資格)を取得しました。すぐに大学進学を望みましたが、母の意向でまずスイスで1年間の家政学研修を受けることに。それを耐え抜いた後、友人とともにアメリカへ渡り、さらに南アフリカの兄クリストフのもとへ向かいました。

帰国後、フランクフルトで経済学の勉強を始めますが、ヒトラーの権力掌握によりユダヤ人や共産主義者の教授・学生が排除されたため、バーゼル大学へ移ります。そこで彼女は、東プロイセンで文化史的に最も重要な城であるフリードリヒシュタイン城の所領がどのように形成されたかをテーマに博士論文を執筆しました。この研究は、後に失われることになる故郷を、先回りして知的に所有することを可能にしました。同時に、父を新しい視点で見直す機会にもなりました。父は実に聡明な政治家であり、広く旅をし好奇心旺盛な、型破りな人物だったのです。1935年、マリオン・グレーフィン・ドンホフは博士号を取得しました。

第二次世界大戦下の責任と抵抗

その後の年月、彼女は早くから戦争の危険を察知していました。1939年に兄弟たちが出征すると、彼女はフリードリヒシュタインの経営を引き継ぎます。一族の荘園だけでなく、若くして亡くなった姉クリスタの二人の息子の世話も担いました。しかし二人とも後に前線で戦死し、その悲しみは計り知れないものでした。

ナチス指導部の攻撃的な言動がエスカレートするにつれ、マリオン・グレーフィン・ドンホフの中に抵抗の意志が固まっていきます。1944年7月20日のヒトラー暗殺計画をめぐる市民サークルの中で、彼女は情報提供者としての役割を担い、良好な人脈を生かして東プロイセンとベルリンの間で重要な連絡をやり取りしました。

暗殺未遂事件の失敗後、グループのメンバーの多くが処刑されました。彼女は沈黙を守ったことと幸運な偶然に助けられ、命拾いします。友人たちを失った悲しみについては、1994年の著書『名誉のために――7月20日の友への追憶』に記されています。同書はこういう言葉で結ばれています。
「すべての友人を失い、ひとり取り残されることほど辛いことはない」

赤軍から東プロイセンを脱出

友人たちを失った翌1945年初頭、今度は故郷を失うことになります。1945年1月、マリオン・グレーフィン・ドンホフはソ連軍から逃れるため西へ向かいます。愛馬アラリックにまたがり、ヴェストファーレンまで1200キロを踏破しました。過去への恨みつらみとは無縁だった彼女は、後に家財の喪失についてこう語っています。
「おそらくこれが愛の最高の形なのでしょう。所有せずに愛すること」

「ディー・ツァイト」で自由を求めて

7月20日に処刑された友人たちに関する覚書がきっかけとなり、1946年、彼女は週刊紙「ディー・ツァイト」のためにハンブルクへ移ります。典型的な男性社会に切り込み、契約を結ばないまま生涯そこで働き続けました。それは「自由」でありたいという思いからで、初任給は600マルクでした。語学力、海外滞在経験、そして幅広い人脈が彼女の武器となりました。編集部との距離感――そして編集部側からの距離感――は特徴的でした。同僚たちには「マリオン」と呼んでもいいと申し出たものの、彼女は常に「伯爵夫人」であり続けました。政治部を担当するようになると、書くだけでなく、自ら実際に関与することを厭いませんでした。

ドンホフはアデナウアーの鋭い批判者となり、妥協をいとわない東方政策を一貫して主張しました。故郷を失ったにもかかわらず、ポーランドとの和解は彼女にとって重要なテーマでした。「ディー・ツァイト」は、1969年にウィリー・ブラントが首相となる一翼を担いました。政治的にも個人的にも、彼女が最も近かったのはこのSPD(ドイツ社会民主党)の政治家でした。1971年には、東欧との和解への貢献により、ドイツ書籍業界平和賞を受賞しています。

「ディー・ツァイト」の編集長へ

1955年には政治部長に就任。「ディー・ツァイト」は掲載量も発行部数も拡大を続け、世界的な注目を集めました。マリオン・グレーフィン・ドンホフは常に若い世代との交流を保ち、「ディー・ツァイト」のためにも若手――男性――に期待をかけ、テオ・ゾンマーとハウク・フォン・キュンハイムを迎え入れました。二人とも、背が高くスリムで金髪碧眼という、彼女の理想の男性像を体現する存在でした。テオ・ゾンマーはその後40年にわたり彼女の腹心となります。彼女は「ディー・ツァイト」の組織内で昇進を重ね、1968年7月1日に編集長に就任しました。伯爵夫人は男性中心の世界で心地よく暮らし、女性たちとの関係は概ね距離を置いたものでした。雑誌「エンマ」のスタッフから「もし1970年に20歳だったら何をしていたか」と問われたとき、ドンホフはこう答えています。
「APO(議会外反対派)に入っていたでしょうね」。特定の女性グループの権利のために闘うことは、彼女には想像できなかったのです。

1972年に編集長を辞任し、ほどなくして発行人に就任。日々の業務からは徐々に退いていきましたが、海外取材に出かけない日は、ほぼ毎日ハンブルクのプレッセハウス6階の自分の机に座り続けました。

1999年からハンブルク名誉市民に

現役の編集生活から退いた後も、彼女はさまざまな活動に情熱を注ぎました。出所者の更生を支援するハンブルクの住宅プロジェクトを立ち上げ、東欧の知識人による研究・留学滞在を支援する財団を設立しました。1999年には、第二の故郷ハンブルクから、イドァ・エーリヒに次いで2人目の女性として名誉市民の称号を授けられました。

マリオン・グレーフィン・ドンホフは2002年3月11日、甥が暮らしていたラインラント=プファルツ州のクロットルフ城にて、92歳でこの世を去りました。