歴史上の人物

タデウシュ・コシチュシュコ(1746〜1817)—ポーランドとアメリカ両国の英雄

タデウシュ・コシチュシュコ(1746〜1817)—ポーランドとアメリカ両国の英雄タデウシュ・コシチュシュコ(1746〜1817)

タデウシュ・ボナヴェントゥラ・コシチュシュコは、軍事技術者であり、ポーランドとアメリカ両国で将軍を務めた、両国に名を残す戦争の英雄です。

若き日と教育

1746年、メレチョフスチズナ地方に生まれたコシチュシュコは、ルビェシュフのピャリスト会学校で学びました。家督は兄が相続することになっていたため、彼自身は軍人としての道を選びました。スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ王がワルシャワに騎士学校(士官学校)を創設すると、チャルトリスキ家の後援を受けて同校に入学します。

優秀な士官候補生だった彼は、さらに工兵課程にも進学しました。訓練修了後は同校に教官として残り、1769年には王室奨学生としてフランスへ渡り、軍事教育を継続するとともに、絵画の勉強にも打ち込みました。

アメリカ独立戦争での活躍

帰国後もポーランド軍では職を得られなかったため、国外での活躍の場を求めることにしました。アメリカ独立戦争の勃発を知ると、大西洋を渡って新大陸へ向かいます。現地では軍営地の要塞化に携わり、その中でもウェストポイント要塞の構築などによって大きな名声を獲得しました。大陸会議は彼を英雄として認め、将軍への昇進に加えて、土地と多額の報酬を与えました。

帰国と1794年の蜂起

1784年にポーランドへ帰国したコシチュシュコは、1792年のポーランド・ロシア戦争に参加し、中将に昇進しました。しかし、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ王がタルゴヴィツァ連盟に加わったことを受けて、亡命を決意します。その後、武装蜂起の準備に関わり、1794年、国民に対する厳粛な誓いを行い、後に「コシチュシュコの蜂起」と呼ばれる反乱を指導しました。蜂起の最中にはポワニェツ布告を発し、農民の人身の自由を保障するなど、社会改革の理念も掲げました。

しかし、マチェヨヴィツェの戦いで負傷したコシチュシュコはロシア軍の捕虜となり、まもなく蜂起は崩壊してしまいました。

晩年

捕虜生活から解放された後、まずヨーロッパ各地を巡り、その後アメリカ合衆国へ渡りました。数か月後に再びヨーロッパへ戻り、フランスに定住しました。そして1817年、この波乱に満ちた生涯を閉じました。