歴史上の人物

シャルル・ド・ロレーヌ(1524年〜1574年)――ロレーヌ枢機卿、ギーズ家の政治的指導者

シャルル・ド・ロレーヌ(1524年〜1574年)――ロレーヌ枢機卿、ギーズ家の政治的指導者

フランス宮廷に君臨したロレーヌ枢機卿

シャルル・ド・ロレーヌ(Charles de Lorraine、1524年〜1574年)は、フランス史上最も権勢を誇った貴族の一つであるギーズ家の中心人物です。著名な軍人フrançois・ド・ギーズ(François de Guise)の兄にあたり、自身はロレーヌ枢機卿として聖職界の頂点に立ちながら、同時に一族の政治的な実質的指導者の役割を担いました。

若き国王フランソワ2世の摂政

1559年にアンリ2世が急死すると、王位を継承したのは病弱な少年王フランソワ2世でした。シャルルは弟フランソワ・ド・ギーズとともに宮廷の実権を握り、事実上の摂政体制を築き上げます。この時期、ギーズ家の権力は頂点に達し、彼らはフランス政治の中枢を支配しました。

しかし1560年にフランソワ2世が早世すると、カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となり、ギーズ家の影響力は急速に後退します。シャルルは失脚する前に、寛容派の政治家ミシェル・ド・ロピタル(Michel de l'Hospital)を自らの後継者として推薦し、表舞台から退きました。

ポアシー会談の挫折と対抗宗教改革への転換

当初、シャルルはカトリックとプロテスタントの和解に対して必ずしも反対ではありませんでした。1561年に開催されたポアシー会談(Colloque de Poissy)では、両派の融和が図られましたが、教義上の溝は埋まらず、この試みは失敗に終わります。

この挫折以降、シャルルの姿勢は一変します。彼はトリエント公会議(1545年〜1563年)で始まったカトリック対抗宗教改革の熱心な擁護者へと転じ、プロテスタント勢力に対する強硬路線を貫くようになりました。

サン・バルテルミーの虐殺と晩年

1572年8月、パリで発生したサン・バルテルミーの虐殺――数千人のユグノー(プロテスタント)が殺害された事件――の報せを受けたとき、シャルルはこれを歓迎し喜んだと伝えられています。この態度は、彼が対抗宗教改革の旗手として揺るぎない立場にあったことを示しています。

また、弟フランソワ・ド・ギーズが1563年に暗殺されると、シャルルはギーズ家の長として甥たちの後見人となり、とりわけ後にカトリック同盟を率いることになるアンリ・ド・ギーズ(Henri de Guise)の養育と教育に深く関わりました。

1574年、シャルル・ド・ロレーヌはこの世を去ります。彼の死後もギーズ家の影響力は受け継がれ、フランス宗教戦争期の政治と宗教を左右し続けることとなるのです。