
クロチルダ(Clotilde、475年頃 - 545年)は、ブルグント王国の王女として生まれ、493年にフランク王国の王クローヴィス1世と結婚した女性です。夫をカトリック信仰へ導いた立役者として知られ、フランク史における最も重要な女性の一人とされています。
ブルグント王女からフランク王妃へ
クロチルダはブルグント王の娘でしたが、家族が政変に巻き込まれて苦難の日々を経験した後、493年にフランク王クローヴィスと結婚しました。当時のフランク族はまだ異教の信仰を守っていましたが、クロチルダ自身は熱心なカトリック信者であり、結婚生活の中で夫に自らの信仰を語り続けました。
クローヴィスの改宗
496年、クローヴィスが戦いで苦戦した際、クロチルダはキリストの名による勝利を祈るよう勧めたと伝えられています。勝利を収めたクローヴィスはランス司教レミギウスの手によって洗礼を受け、カトリックに改宗しました。これによりフランク王国はローマ教会と強く結びつくことになり、後の西ヨーロッパの歴史の方向性を決定づけました。この歴史的転換点において、クロチルダの果たした役割は計り知れません。
摂政としてのクロチルダ
511年にクローヴィスが死去すると、クロチルダは三人の息子たち――クロドメール、ヒルデベルト1世、クロタール1世――の摂政として王国の運営に関与しました。しかし息子たちは父の遺領を分割して統治し、互いに覇権を争う関係にありました。
孫たちの悲劇
524年、長男クロドメールが戦死すると、クロチルダは彼が遺した幼い息子たちを引き取り、祖母として養育しました。ところが、残る二人の息子ヒルデベルトとクロタールは、甥たちが成長後に父の領土を要求することを恐れ、クロチルダに残酷な選択を迫ります。メロヴィング朝では長い髪が王権の象徴とされ、髪を切られた者は王位に就く資格を失うため、「甥たちの髪を切り落とすか、あるいは殺すか」——そのどちらかを選べというのです。
クロチルダは「剃られるくらいなら、死んだ方がまし」と答えました。その結果、クロドメールの子のうち二人は殺され、一人だけが辛うじて逃げ延びました。生き延びた少年は後に僧侶となり、自身の名を冠した修道院サン=クルー(Saint-Cloud)を創建したと伝えられています。
晩年と列聖
孫たちの悲劇の後、クロチルダは宮廷を離れて隠棲し、余生を祈りと慈善活動に捧げたといわれています。545年に死去した後、彼女は聖人として列聖され、現在でもフランスでは聖クロチルダとして敬仰されています。パリには彼女にちなんだサン=クロチルド教会が建てられ、その名は今もフランスの歴史と文化に深く刻まれています。