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パレスチナを支配した歴代政権とは?ローマ時代から現代までの統治体制の変遷

パレスチナは、その戦略的な地理位置ゆえに、2000年以上にわたり数多くの勢力による支配を受けてきました。本記事では、ローマ時代からイスラエル建国まで、各時代にどのような政府・統治体制が敷かれていたのかを時代順にわかりやすく解説します。

ローマ支配下のパレスチナ

ローマ帝国の時代、パレスチナは複数の行政区画に分割され、それぞれがローマの行政長官(プロクラトル)によって統治されていました。行政長官の主な任務は、法と秩序の維持、税の徴収、そしてシリア総督の命令の執行でした。

ユダヤ人たちは自らの宗教的・文化的慣習を守ることをある程度許されていましたが、あくまでローマ法とローマの権威に従うことを求められていました。

第二神殿崩壊後の「ユダア属州」

西暦70年、ローマ軍によるエルサレム攻略により第二神殿が破壊されると、ローマはユダヤ人の自治国家を廃止し、「ユダア」と呼ばれる新たな属州を設立しました。

以降、属州はローマ総督が全ての行政を掌握する直接統治下に置かれます。ユダヤ人が公然と宗教を実践することは困難となり、重い課税と迫害に苦しむことになりました。

ビザンツ帝国(東ローマ)時代

西暦324年、ローマ帝国は東西に分裂し、パレスチナはキリスト教国家であるビザンツ帝国の領土となりました。

当初、ユダヤ人は依然として宗教を公に行うことができませんでした。しかし、ビザンツの皇帝たちはローマ時代の統治者よりもユダヤ人に対して寛容であり、シナゴーグ(ユダヤ教会堂)や学校の建設を認めるなど、次第に柔軟な姿勢を見せるようになりました。

アラブ・ムスリムの征服とカリフ制

西暦638年頃、パレスチナはアラブ系ムスリム(イスラーム教徒)勢力によって征服されました。ムスリムたちは「カリフ制」と呼ばれる新しい統治体制を樹立しました。

カリフ制は中央集権的な政治システムであり、カリフが最高支配者として君臨しました。特筆すべきは、カリフたちがユダヤ人やキリスト教徒に対して比較的寛容であった点です。「啓典の民」とみなされた彼らは、信仰を自由に実践することを認められました。

十字軍の征服とエルサレム王国

西暦1099年の第一次十字軍により、パレスチナは十字軍の手中に落ちました。十字軍は「エルサレム王国」という封建国家を築き上げ、国王が最高支配者となりました。

しかし、十字軍の時代はユダヤ人やムスリムにとって暗黒の時代でした。両者は寛容な扱いを受けるどころか、激しい迫害の対象となったのです。

マムルーク朝の支配

西暦1291年、エジプトとシリアを拠点とした強力な軍事政権であるマムルーク朝が、ついに十字軍をパレスチナから駆逐しました。

マムルーク朝は中央集権的な「マムルーク・スルタン国」を樹立し、スルタンが最高権力者として統治しました。マムルーク朝の下で、ユダヤ人とキリスト教徒は再び信仰の自由を取り戻すことができました。

オスマン帝国時代

西暦1517年、パレスチナはオスマン・トルコの手に渡ります。オスマン帝国もまた中央集権的な統治体制を採り、スルタンが帝国全体を統べました。

オスマン帝国の統治は概して寛容であり、ユダヤ人やキリスト教徒はミレット制と呼ばれる宗教共同体の枠組みの中で、信仰の自由を保障されて暮らしていました。

イギリス委任統治期

第一次世界大戦中の1917年、パレスチナはイギリスの支配下に入りました。戦後、国際連盟の承認のもとで「イギリス委任統治領パレスチナ」が成立し、イギリス高等弁務官が統治の最高責任者として君臨する体制が敷かれました。

この時代、ユダヤ人とアラブ人の対立が深刻化していった一方、宗教実践自体はおおむね自由に行われていました。

イスラエル建国と現代

そして1948年、イスラエル国が正式に建国されました。現在のイスラエルは議会制民主主義を採用しており、首相が政府の長として国政を率いています。

イスラエルは世俗国家であり、憲法的な原則として全ての市民に信仰の自由が保障されています。

まとめ

パレスチナの統治体制は、ローマの行政長官制、ビザンツの皇帝統治、イスラームのカリフ制、十字軍の封建王政、マムルーク朝とオスマン帝国のスルタン統治、イギリスの委任統治を経て、現在の議会制民主主義へと移り変わってきました。支配者が交代するたびに宗教政策も大きく変動し、寛容の時代と迫害の時代が繰り返されたことは、この地域の歴史の複雑さを物語っています。