アウラングゼーブの時代の建築
アウラングゼーブは敬虔なスンニ派ムスリムでした。彼は、絵画・音楽・建築といった芸術に深い関心を寄せた父シャー・ジャハーンや三人の兄弟を快く思っておらず、自分の目にはそれらすべてがイスラームに反する行為と映っていたのです。
ビービー・カ・マクバラー――「デカンのタージ」
アウラングゼーブの治世には、マハーラーシュトラ州アウランガーバード近郊に、亡き妃ラビーウッダウラニー(別名ディルラス・バノー・ベーグム)の墓廟が建てられました。これは「ビービー・カ・マクバラー」と呼ばれ、「デカンのタージ」の異名でも知られています。
タージ・マハールを模倣しようとした試みでしたが、ミナレット(尖塔)の均衡が欠けていたため、建物全体の調和は損なわれてしまいました。装飾アーチやその他の意匠にも特筆すべき点はなく、全体として質素な建築です。墓廟のドームのみ大理石製で、その他の部分は白い漆喰で覆われています。
モティー・マスジド(真珠モスク)
アウラングゼーブはデリーのレッド・フォート(赤い城)内にもモスクを建てました。その簡素な佇まいが特徴で、「モティー・マスジド」とも呼ばれます。このモスクは高品質な大理石で造られています。
バードシャーヒー・モスク(ラホール)
アウラングゼーブはラホールにもモスクを建設しました。これが「バードシャーヒー・モスク」です。湾曲したベンガル式屋根とふくよかなドームを備え、礼拝堂本体とミナレットは赤砂岩製、ドームおよびミナレット上部の小塔は白大理石で造られています。
このモスクはインド亜大陸で3番目に大きいモスクであり、赤砂岩で造られた集会モスクとしては最後のものです。この後、ムガル朝が同種のモスクを建てることは二度とありませんでした。シャー・ジャハーンがデリーに建てたジャーマー・マスジドをモデルとしていますが、その規模はデリーのものをはるかに上回ります。
王族たちによる建造物
アウラングゼーブの次女ズィーナトゥンニサーは、1707年、デリーのシャージャハーナーバード、カイラティー門の近くにズィーナトゥル・マスジドを建てました。シャー・ジャハーンのジャーマー・マスジドに似ていることから、「デリーのミニ・ジャーマー・マスジド」とも呼ばれています。
また、シャー・ジャハーンの娘ローシャナーラーは1671年に死去し、デリーに彼女の墓廟が建てられました。墓廟の周囲には広大な庭園が広がっており、その一部は今日も残っています。
1673年には、アウラングゼーブの時代にラホール城のアーラムギーリー門が建てられました。さらに、アウラングゼーブの義弟ムザッファル・フサインは、チャンディーガルから22kmの地点にピンジョール庭園を造営しました。この庭園はシュリーナガーのシャーリーマール・バーグの様式にならい、七段のテラス状の花壇で構成されています。
庭園の正門は最上段のテラスに通じており、そこにはラージャスターン・ムガル折衷様式の宮殿「シーシュ・マハル」が建っています。その外観はハワー・マハルを思わせます。第二テラスには、アーチ型の扉を備えた「ラング・マハル」が置かれています。
アウラングゼーブ以降のムガル建築
1707年のアウラングゼーブの死後、後期ムガル皇帝たちの時代には、目立った建築物はほとんど生まれませんでした。中央権力の弱体化に伴い、建築様式も地方政権と同じように地域色を帯びるようになり、建設事業はムガル皇族の手からアワド太守をはじめとする地方の領主たちへと移っていったのです。
カーンデーシュや南部地方でもいくつかの建物が建てられましたが、いずれもシャー・ジャハーン時代の水準には達しませんでした。アシールディラール・シュリーヴァースタヴァ博士は次のように述べています。「18世紀後半に建てられた建築物は、ムガル建築のデザインにおける空虚さと破綻を映し出している。」
サフダル・ジャング廟
1753年から54年にかけて、デリーに宰相サフダル・ジャングの墓廟が建てられました。垂直方向の比率が必要以上に強調されているものの、ムガル建築の傑作とみなされています。廟内にはサフダル・ジャングとその妻の墓があります。
中央棟には白大理石製の大きなドームが据えられ、その他の部分は赤砂岩で造られています。その建築様式はフマーユーン廟の設計に基づいており、モティー・マハル、ジュングリー・マハル、バードシャー・パサンドといった名称の亭(パビリオン)も備えています。四方には四つの水路が巡らされ、それぞれ四つの建物へと続いています。主殿には八角形のミナレットが四基付属しています。
ザファル・マハル――ムガル最後の建造物
南デリーのメヘラウリー地区に位置するザファル・マハルは、ムガル時代最後の歴史的建造物です。内部構造は皇帝アクバル2世が、外郭部分と門はバハードゥル・シャー2世が造りました。大理石と赤砂岩で造られた三階建ての建物で、入口は高さ50フィート(約15メートル)、幅15メートルにおよびます。
この門はバハードゥル・シャー・ザファルによって建てられ、入口には湾曲したベンガル式ドームと小さな張り出し窓(ジャローカー)が設けられています。正門アーチの上部には、両側に石造りの蓮花が飾られています。
イギリス統治時代の建築
イギリスの官吏たちはインドに数多くの巨大な建物を建てました。そこにはヨーロッパの建築様式に加えて、インド的・イスラーム的な様式も取り入れられていました。1911年、イギリスはニューデリーを首都と定め、政府庁舎、教会、キリスト教徒墓地などを建設しました。これらにはヨーロッパ建築の影響が明瞭に見て取れます。
カルカッタのヴィクトリア記念館、ボンベイのチャーチゲート駅舎、デリーの総督官邸(現在のラシュトラパティ・バワン)、国会議事堂などは、いずれもイギリスが残した遺産です。さらに、ボンベイのインド門とデリーのインド門もイギリスによって建設されました。
寺院建築の新たな展開
イギリス支配下では、ヒンドゥー寺院建築も新たな形で発展しました。デリーのラクシュミーナラヤン寺院、バナーラス・ヒンドゥー大学の校舎群、バラナシのカーシー・ヴィシュワナート寺院、そしてバーラト・マーター寺院は、20世紀の寺院建築を代表する傑作です。
一方、クシーナガルに建てられた涅槃寺、仏陀寺院、政府宿泊施設では、仏教美術が復興されました。デリーにもラクシュミーナラヤン寺院に隣接して仏陀寺院が建てられています。
この時期には、諸侯の宮殿や学校建築もまた建築に新しい形をもたらしました。ヒンドゥー、ジャイナ、仏教、イスラーム、キリスト教という各建築体系が融合した結果、インド建築はまったく新しい姿へと変貌を遂げたのです。