歴史物語

中世ポーランドの学生生活の暗い側面 〜クラクフ大学に渦巻いた酩酊、窃盗、喧嘩の日々〜

泥酔、窃盗、放埒、喧嘩、そして排外的ないたずら。おそらく、カジミェシュ大王が1364年にクラクフにポーランド初の大学を創設した際、こんな光景を思い描いていたわけではないでしょう。

親元を離れた若者たちと「自由の代償」

中世、学生たちはしばしばトラブルに巻き込まれていました。その理由はいくつも挙げられます。遠方からクラクフへ学びにやってきた学生たちの多くは、監視の目がなくなった自由の味を知り、当時非難されたり禁止されたりしていた娯楽にふけったのです。

最大の弊害は「泥酔」

学生たちに最も多かった過ちが泥酔でした。中世のクラクフでは、ワイン醸造所や酒場が雨後の筍のように増え続け、教養ある人々の間では「あらゆる悪の温床」とまで言われていました。

酒場に入り浸る学生には厳しい罰則が科されていましたが、それでも飲酒を思いとどまらせることはできませんでした。むしろ事態は悪化の一途をたどり、学費として渡されたお金を酒につぎ込んでしまう若者が後を絶ちませんでした。そうなると今度は賭博に手を出す学生が現れ、なかにはイカサマまで働く者もいたといいます。

中世ポーランドの学生生活の暗い側面 〜クラクフ大学に渦巻いた酩酊、窃盗、喧嘩の日々〜

泥酔こそ、中世の学生にとって最大の禍根でした。

鎖で机に縛られた本

窃盗もまた日常茶飯事でした。寮の書物が「不思議な」消失を遂げるのを防ぐため、本を机に鎖で繋ぎ止めるよう命じられたことさえあったほどです。学生たちは盗むだけでなく、盗まれる側に回ることもありました。酔っ払っているところを酒場で襲われることもあれば、寮で被害に遭うこともあったのです。

禁じられた異性との交わり

泥酔や窃盗と並んで放埒も横行していました。クラクフ・アカデミアでは女性の入学が認められておらず、当然ながら女子学生の寮への立ち入りも禁じられていました。とはいえ、寮の住人が女性を「密かに」招き入れようと試みなかったわけではなく、実際には学生が自ら女性の家を訪れることの方が一般的だったようです。

絶え間ない喧嘩沙汰

もう一つの深刻な問題が喧嘩でした。カジミェシュ大王が1364年にクラクフ・アカデミアを創設する以前から、大聖堂学校に通う酔っ払いの若者たちへの苦情はすでに寄せられていました。争いの原因はさまざまでしたが、その結末はほぼ同じ――すなわち殴り合いでした。

裕福な学生たちは、貧しい学生の寮の窓辺に近づいては侮辱を浴びせ、相手を挑発することがよくありました。しかし貧乏学生たちも黙ってはいません。ある夜、彼らは富裕層の寮を打ち壊して見せたのです。

中世ポーランドの学生生活の暗い側面 〜クラクフ大学に渦巻いた酩酊、窃盗、喧嘩の日々〜

中世のクラクフは、数多くの学生による乱暴狼藉を目撃してきました。

外国人学生への敵意

争いのもう一つの火種となったのが、他国出身の学生への反感でした。ポーランド人の若者はマズーリア地方出身の同級生をからかうことが多く、リトアニア人やルーシ人に対しても嫌悪感が存在しました。とりわけひどかったのは、ドイツ人に対する態度でした。

中世ポーランドの学生生活の暗い側面 〜クラクフ大学に渦巻いた酩酊、窃盗、喧嘩の日々〜

ヤロスワフ出身のスタニスワフ・リスという学生は、ドイツ人学生に殴られた仕返しに、まず大学構内で相手を殴り、その後路上でもっと激しく報復しました。ハンガリー人もドイツ人を嫌っており、寮が荒らされるほどの衝突に発展することさえあったのです。

ハンガリー人とポーランド人の衝突も発生しました。日常的な小競り合いに加えて、ポーランド人学生があるハンガリー人寮の扉に侮辱文を書いた張り紙を貼り付けた事件が記録に残っています。

マジャール人たちは学長に訴え出、学長はその学生に謝罪を命じました。「ポーランド人とハンガリー人は二人の兄弟」という有名な諺がありますが、こうしてみると、ポーランドの学生たちは必ずしもハンガリーと「兄弟愛」で結ばれていたわけではなかったようです。ただし、ドイツ人との対立に比べれば、ハンガリー人との衝突は概してそれほど過激なものではなかったといいます。

参考文献

  • Feliks Kiryk『Nauk przemożnych perła(強大なる学問の真珠)』クラクフ、1986年