歴史物語

第一次世界大戦より多くの命を奪った「スペインかぜ」――発生地の謎と米国を襲った悲劇

血の混じった咳。そして、特別に仕立てた列車で運ばねばならないほど積み上がった死体の山。20世紀最悪のパンデミックとして知られる「スペインかぜ」は、いったいどこで生まれ、どのように世界を席巻したのでしょうか。そして、なぜ国債市場との関わりが語られるのでしょうか。

この伝染病はほぼ全世界に広がり、当時の世界人口の約30%が感染したと推定されています。14世紀の「黒死病」以来となる大規模なパンデミックであり、その犠牲者は第一次世界大戦の戦死者を上回りました。

ウイルスはどこから来たのか?

この型のインフルエンザは瞬く間に「スペインかぜ」と呼ばれるようになりましたが、ウイルスの発源地をスペインに求めるのは誤りです。この名が広まったのは、第一次世界大戦に参戦していた各国がメディアへの厳しい報道統制を行い、士気を損なう情報を封じていた一方、中立国スペインだけは報道の自由が保たれていたためです。スペインの新聞がパンデミックについて率直に報じたことで、「スペインで流行している病気」という印象が世界的に定着してしまったのです。しかし、実際の発生源は別の場所にあると考えられています。

現在、有力視されている発生地の候補は次の3つです。

  • アメリカ・カンザス州ハスケル郡
  • フランス
  • 中国

最初の候補であるカンザス州からは、「原因不明の病気」に関する最初の公式記録が残されています。記録を残したのは地方開業医のローリング・マイナー博士で、ある一日だけで18人が発病し、うち3人が死亡したと報告しています。おそらく感染源となったこの郡を訪れた兵士たちがウイルスを軍事基地へ持ち帰り、密集した環境の中で一気に拡散させました。

2番目の候補はフランスです。イギリスのウイルス学者ジョン・オックスフォードは、1916年に南フランスのイギリス軍基地でインフルエンザ様の集団発生があったことを突き止めています。

第一次世界大戦より多くの命を奪った「スペインかぜ」――発生地の謎と米国を襲った悲劇

そして3番目の候補が中国です。ヨーロッパで流行が猛威を振るう数か月前、ニューヨーク・タイムズ紙は中国で「奇妙なインフルエンザ様の疫病」が発生していると報じていました。

今日の研究をもってしても、すべての始まりの場所を特定することはできません。しかし確かなのは、このウイルスが二つの波に分かれて世界を襲ったという事実です。第一波は比較的穏やかなものでした。だが、第二波は極めて凄惨な結果をもたらしたのです。

兵士たちを襲う悪夢

前線の兵士たちの間では、感染は民間人よりもはるかに速いスピードで広がりました。興味深いことに、感染者の絶対数は兵士と一般市民でそれほど違いませんでした。ところが死亡率は、兵士の方がはるかに高かったのです。

その理由は、患者を収容する過密な環境にありました。感染した患者たちは、吊るされたシート一枚で仕切られただけの空間で治療を受け、二次感染が起こるのに理想的な条件が揃っていたのです。

第二波に関する最初の報告が届いたキャンプ・デヴェンスでは、当初1日に90人ほどが診療所を訪れていました。ところがその数はまもなく500人に達し、ある時点では定員1,200人の診療所に6,000人以上が押し寄せました。そこに勤務する衛生兵の一人は、ウイルスの猛威についてこう証言しています。

「我々はそれを食べ、その中で暮らし、その中で眠り、夢にまで見る。16時間にわたりそれを吸い込んでいるのだから、なおさらだ」

死亡率はあまりにも高く、兵舎の一棟はあっという間に霊安室に改装され、遺体は特別列車で運び出されました。衛生兵によれば、死体は無残にも積み重ねられていたといいます。彼は手紙にこう書き残しています。

「私は何百人もの若く屈強な男たちが、祖国の軍服を身にまとい、10人以上のグループで診療所に運ばれてくるのを見た。ベッドがすべて埋まっても、彼らは次々と運び込まれた。顔はまもなく青黒く変色し、ひどい咳とともに血を吐いた。朝になると、死体はまるで薪のように霊安室に積み上げられていた」

ほとんどの軍事基地で、疫病の経過は似通っていました。最初は数件だった感染者が数百人、数千人へと膨れ上がり、5〜6週間後には流行は突如として収束していきました。

第一次世界大戦より多くの命を奪った「スペインかぜ」――発生地の謎と米国を襲った悲劇

自由公債パレードとウイルス

1918年春、ニューヨークでは戦争遂行の資金を調達するため、「自由公債(リバティ・ボンド)」と呼ばれる戦時国債の販売キャンペーンが始まりました。その宣伝を飾ったのが、大規模なパレードです。映画スターのダグラス・フェアバンクスら著名人の登場に、何千人もの市民が繰り出しました。

そして9月、フィラデルフィアには約10万人の「勇敢な」男女――労働者、そして愛国者たち――が集結しました。しかし、『インフルエンザ 100年の闘い』の著者ジェレミー・ブラウンはこう述べています。

「人々が首を伸ばしてよく見ようとしたとき、周囲の人々へとウイルスを移していた。自由の行進は、まず何よりもウイルスを解き放ったのだ」

パレードのわずか2日後、100人以上が死亡しました。教会、劇場、学校は閉鎖され、街頭での唾吐きまで禁止されました。しかしそれはもう手遅れでした。市内唯一の死体安置所の収容能力は30体余り。そこにはたちまち何百もの遺体が運び込まれました。

「空いている棺ひとつにつき、10の死体が順番待ちをしていた。死の臭いが至る所に充満していた。地元の大工たちは普段の仕事を捨て、棺を作り続けた。葬儀社の中には、料金を600%以上も値上げしたところさえあった(…)」

フィラデルフィアで起きたことは、アメリカ全土で起きていました。そしてウイルスは、ほぼ全世界へと広がっていったのです。

出典

本記事は、以下の書籍をもとに執筆しています。

  • ジェレミー・ブラウン『インフルエンザ 100年の闘い』(ヤギェウォ大学出版局、2019年)