王朝のために犠牲になった愛のかたち
19世紀から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの支配者階級に生まれた同性愛者たちは、結婚を強いられていました。妻は夫の心を掴むことはできませんでしたが、当時の王室にとって愛よりも重要だったのは、子をもうけ、王朝を存続させることだったのです。
時代が許さなかった「本当の自分」
こうした政略結婚政策の背景には、現代とは大きく異なる同性愛への認識がありました。当時、同性への魅力は「若さのいたずら」あるいは「克服すべき悪習」とみなされていたのです。若い男性たちの家族は彼らの内なる欲求を無視し、花嫁となる女性たちは、未来の夫の性的指向について何ひとつ知らされませんでした。結婚後に真実が明らかになったとき、女性たちは当時の慣習に従い、歯を食いしばって平然とした顔を装うしかなかったのです。
沈黙の中で耐えた王妃たち
政略結婚の犠牲者の一人が、ロシア皇帝ニコライ1世の娘オリガ(1822~1891)です。彼女は1846年、ヴュルテンベルク王国の王位継承者カール公子と結婚しました。ところが間もなく、若き夫は魅力的で教養ある妻よりも、他の紳士たちと過ごすことを好むことが明らかになったのです。
1864年に王位に就いた後、国王カール1世はより若い男性たちと公然と付き合うようになりました。その一人であるアメリカ人は、ナイトの称号を授けられることさえありました。新たな恋人が現れると、二人は親密な関係を誇示するかのように、お揃いの服を着るようになったといいます。そんな折、王妃オリガは夫の奔放な振る舞いを知らないふりを通し、慈善活動にますます時間を捧げるようになりました。おかげで彼女は、ヴュルテンベルクの歴史に名を残す存在となったのです。
夫と養女とともに写るオリガ・ロマノワ
同様の運命に見舞われたのが、ヴィクトリア女王の孫娘マリー・ルイーズ王女(1872~1956)です。彼女はドイツのアンハルト侯国のアリベルト公子からプロポーズを受けました。きっかけは、従姉妹の結婚式での偶然の出会い、たった一度きりでした。この性急さの裏には、強大な女王の孫娘という彼女が、ヨーロッパの「結婚市場」において格好の的だったという事情があったのでしょう。
マリー・ルイーズとアリベルトは1891年に結婚しました。結婚生活は9年続きましたが、夫婦としての絆が結ばれることは一度もありませんでした。夫妻が顔を合わせるのは食事の時だけで、公子は侍従と過ごす時間を優先していたのです。1900年、二人は離婚し、マリー・ルイーズはロンドンへ戻りました。彼女が二度と結婚しなかったのは、最初の夫に誓った誓いに縛られていると自覚していたからです。
背徳の罪として
多くの場合、異なる性的指向は本人にとてつもない苦しみをもたらしました。ニコライ2世の従叔父にあたり、「K.R.」の筆名で詩人としても名を馳せたコンスタンチン大公(1858~1915)もその一人です。海軍に入隊した十代の頃から、コンスタンチンは若く美しい将校たちに恋心を抱いていました。「私は男らしさに魅了され、男性の美しさを愛している」「女性への愛には嫌悪感を抱く」――そう日記に打ち明けています。
十代の頃から、コンスタンチンは若く美しい将校たちに恋をしていた
それでも大公は、支配者一族の一員として、相応しい高貴な花嫁と結婚する義務があることを理解していました。
その相手となったのが、ドイツ・ザクセン=アルテンブルク公国のエリーザベト王女で、二人は1884年に結婚しました。夫妻は9人の子供に恵まれ、うち8人が成人まで育ちました。30年以上に及ぶ結婚生活の中で、コンスタンチンは「死に至る罪」だと自認する同性愛と闘い続けました。大公は幾度となく「二度と他の男性と親密な関係を持たない」と自分に誓い、「私は自分の汚れた考えや欲望と戦い始める」と日記に記しています。
しかし結局は、天性のものの方が勝りました。コンスタンチンは再び美しい青年たちとの交際を始めたのです。彼にとって唯一の安全弁となったのが日記でした。それは生涯にわたり、妻から注意深く隠され続けたのです。
規則の例外となった結婚
おそらくこの種の結婚で唯一成功した例が、ニコライ2世の姪イリーナ王女とフェリックス・ユスポフ公爵の結婚でしょう。若きユスポフは帝国有数の大富豪の相続人でした。カフカースのユスポフ家の領地はカスピ海沿岸に200kmにわたって広がり、国内各地に点在する宮殿のほとんどは、所有者が訪れる暇もないため、一年の大半を空き家のまま過ごしていました。
一見すると、これほど裕福な青年は、互いに愛し合っていたイリーナにとって理想的な相手に思えます。ところが両親はこの恋に反対しました。ユスポフが男女を問わず恋愛関係を持っていたと聞いていたからです。興味深いことに、王女自身はフェリックスから自らの性的傾向を打ち明けられた後も、彼と結婚する決意を貫いたのです。
イリーナとフェリックス・ユスポフ
この結婚の承認を得るため、青年は白羽の矢を立てたのが、祖母にあたる皇太后マリア・フョードロヴナでした。イリーナは皇太后のお気に入りの孫娘であり、この老婦人はロマノフ家において大きな影響力を持っていました。謁見の場でフェリックスは懺悔し、不道徳な行いをやめると誓いました。会見の終わりに皇太后はユスポフの誠意に満足し、若い二人が幸せになれるよう全力を尽くすと約束します。そして約束は守られ、ほどなくイリーナとフェリックスは結婚し、一年後には娘が生まれました。二人の結婚は幸せなもので、歴史資料にはこの家庭に関する醜聞は一切記録されていません。なお、フェリックスは後に、怪僧ラスプーチンの暗殺に関与した人物として歴史に名を刻むことになります。
参考文献
- Beeche A. (eds.) "The Grand Duchesses: Daughters & Granddaughters of Russia's Tsars", Eurohistory, 2004
- Packard J. "Queen Victoria's Daughters", St. Martin's Press, 1998
- Wiernicka V. "Secrets of the Russian Tsars", Księży Młyn, 2018