歴史物語

有刺鉄線の向こう側のオリンピック――ナチス・ドイツの監視下、捕虜たちが実現させた2つの大会

栄養失調で衰弱した体でありながら、彼らは「カエル跳び」で跳び、バレーボールをプレーし、100メートル走に挑んだ。スポーツによる競い合いは、少なくとも「普通の日々」の代わりになるはずだった。それは誰のことか?――1940年と1944年、有刺鉄線の内側で自らの大会を、彼らは誇りをもって「有刺鉄線の向こう側のオリンピック」と呼んで開催した、捕虜収容所の囚人たちである。

1936年8月16日、ベルリンで第11回オリンピック競技大会が閉幕した。ポーランド代表は銀メダル3個と銅メダル3個を獲得したものの、金メダルには届かなかった。そして4年後、ポーランド人は総合優勝を果たす。ただしその大会は、収容所の有刺鉄線の内側で行われたものだった。

1940年の夏季・冬季オリンピックは日本で開催される予定だった。それぞれ東京と札幌である。ところが1938年夏、日中戦争に巻き込まれた日本では大会運営が困難になったため、IOCは開催地の変更を決定。夏季大会はヘルシンキへ、冬季大会はバイエルンのガルミッシュ・パルテンキルヒェンへと移された。

しかし1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発し、多くの選手はジャージの代わりに軍服を着ることとなった。歴史家リシャルト・ヴリクによれば、9月作戦(ポーランド侵攻)に従軍したポーランド人オリンピアンは実に124名に上り、うち12名が戦死、42名がドイツまたはソ連の捕虜収容所へ送られたという。同年11月にソ芬戦争が始まると、次のオリンピックが開催されないことは明白となった。スポーツの戦いは、前線での戦いに道を譲ったのである。

秘密裏の計画と創意工夫

舞台はニュルンベルク近郊の捕虜収容所「シュタラークXIII A」。そこに収容されていたのが、イェジ・スウォムチンスキ准尉である。ブレストの第82歩兵連隊で体育教官を務め、戦前はサッカー選手でもあった彼は、1940年8月末、中止されたヘルシンキ・オリンピックの代替となる地下スポーツ大会を企画するアイデアを思いついた。この提案は、仲間の捕虜たちから広く支持を受けた。

発案者は「ストロー」という愛称で呼ばれ、ユーゴスラビア、イギリス、ベルギー、ノルウェー、フランス、オランダ出身者らからなる国際的なグループを周囲に集めた。彼らは「収容所オリンピック」の組織委員会を結成した。委員長にはイギリス将校のオブライエンが就任し、元テニス選手で衛生兵のロジェ・ヴィリオンが大会の円滑な運営を担当した。

どの種目をプログラムに組み込むべきかについて、捕虜たちは長い議論を重ねた。選定で最も重視されたのは、ドイツ側に知られずに数日間続くスポーツイベントが開かれていることが発覚した場合、素早く言い訳できるかどうかだった。こうして組織委員会は、バレーボール、自転車、砲丸投げ、アーチェリー、走幅跳、そして罰としての「カエル跳び」による50メートル走を競技種目とした。

有刺鉄線の向こう側のオリンピック――ナチス・ドイツの監視下、捕虜たちが実現させた2つの大会

オリンピック旗の役割は、5つの輪を描いたシャツが務めた。

開会式は1940年8月31日に執り行われた。捕虜たちは、入り口に発疹チフスへの警戒を促す張り紙が掲げられた、ラザレット(病舎)の一室に集まった。選手たちはあらゆる準備に細心の注意を払った。オリンピック聖火は缶詰の脂が燃える残り火で代用され、旗は5つの輪を描いたシャツだった。ウァツワフ・ガショロフスキ(ウォヴィチ出身の理髪師)が賛歌を作詞し、ヤン・チョッフが参加者を代表して選手宣誓を行った。テオドル・ニェヴィャドムスキは著書『開催されなかったオリンピック…』の中で、この瞬間を次のように回想している。

チョッフは議長席のテーブルへ歩み寄った。右手は空高く掲げられていた……だが明らかに震えており、指も震えていた […]。
「どうしたんだ、我らのジョニーは?」
潤んだ瞳、神経性のけいれん。固く結ばれた口は言葉を発せない。ついに……
「スタジアムが有刺鉄線で囲まれている、すべての選手たちを代表して……」

競技が始まった。最初の種目はバレーボールだった。ドイツ兵が夕食を取っている間に、洗濯物を掛けた木々が立ち並ぶ病院の中庭で、オランダ代表とベルギー代表が対戦した。ベルギーが7対1とリードしたその時、突然、収容所の医師が病院の扉に現れた。目の前の光景に衝撃を受けた医師は、すべてを管理部門に報告。「現行犯」で捕らえられた選手たちは懲罰中隊送りとなったが、大会は続行された。

以降の競技は非常に順調に進んだ。主催者側は、ドイツ人の接近を知らせる特別な見張り役まで編成していた。オリンピックの締めくくりとなったのは、罰としてのカエル跳びによる50メートル走。なんとこの種目は公然と行われたのだ。ドイツ側は、捕虜たちが与えられた罰則の訓練をしているのだと思い込んでいたのである。この種目を制したのは先述のテオドル・ニェヴィャドムスキで、彼の優勝によりポーランド勢がメダルランキングの首位に立った。第一回「有刺鉄線の向こう側の大会」は1940年9月8日に閉幕した。

許可を得て、記録を残して

4年後、大会はロンドン(夏季)とコルティナ・ダンペッツォ(冬季)で開催される予定だった。しかし戦争は依然として続き、IOCは両大会とも中止を決めた。1944年7月末から8月初めにかけて、西ポモージェ地方ヴォルデンベルク(ドビェグニェフ)の捕虜収容所の捕虜たちは、自らの手で事態を動かすことにした。ここで第二回「有刺鉄線の向こう側の大会」が開催されたのである――前回とは少し様相の異なる大会だった。

大会の運営を率いたのはアントニ・グシェシク大尉。1932年ロサンゼルス五輪金メダリストのヤヌシュ・クソチンスキに、9月作戦中に命令を下していた人物である。彼は単独で動いていたわけではない。彼は軍隊スポーツクラブ協会とともに、オフラークII Cヴォルデンベルク収容所の管理当局に対し、「1944年捕虜オリンピック」開催の許可を求める公式申請を行ったのだ。各戦線での苦境を悟っていたドイツ側は、イメージ改善につながると考え、これを承諾した。今回は参加者が隠れる必要はなかったのである。

有刺鉄線の向こう側のオリンピック――ナチス・ドイツの監視下、捕虜たちが実現させた2つの大会

1936年ベルリン五輪は、長い中断期に入る前の最後の公式大会となった(写真は走高跳のエルフリーデ・カウン)。しかしドイツの収容所にいた捕虜たちは、独自のオリンピックを開催したのだ。

壮麗な開会式は1944年7月23日に行われることになり、選手たちはボクシング、バスケットボール、陸上競技、サッカー、ハンドボール、バレーボールで競い合うこととなった。ただしドイツ側の管理当局からは、一部の種目は実施できないとの但し書きが付いた(脱獄を恐れて、棒高跳びさえも禁止された)。プログラム以外にも、チェス大会や芸術コンクールが開催された。

いくつかの制約やワルシャワ蜂起勃発の知らせがあったにもかかわらず、オリンピックはほぼ完璧に進行した。観客には入場券が配られ、大勢が競技会場に詰めかけた。6つのクラブを代表する選手たちは、栄養失調と不規則な練習環境にもかかわらず、非常に高いレベルのパフォーマンスを見せた。例えば100メートル走では、優勝したスペチク・ヴィダウスキ少尉が11秒5を記録。当時の世界記録にわずか1秒3及ばずという好タイムだった!入賞者にはメダルと、紙に型押しされたディプロマ(賞状)が授与された。第二回大会は1944年8月13日に幕を閉じた。

収容所におけるスポーツの戦いは、オリンピック精神への揺るぎない信頼の象徴となった。それは参加者たちに、より良い明日への希望と、この場所でこそ必要とされる忍耐を与えた。今日では、何人の捕虜がカエル跳びやバレーボールのおかげで自ら命を絶つことを思いとどまったのかを知る術はない。たとえ一人きりだったとしても――有刺鉄線の向こう側で開かれた大会には、それだけの価値があったのだ。