兄弟の絆
1900年生まれのアドルフ・ダスラー(愛称「アディ」)は、4人兄弟の末っ子として、クリストフとパウリーネの息子として生まれた。内向的で寡黙な青年だった彼は、自由時間のほとんどをスポーツに捧げた。1913年、パン屋で見習いを始めたが、初日で自分には合わないと悟る。若きダスラーは、むしろ自ら道具を作り、競技に役立てることを好んだ。
2歳年上の兄ルドルフは、アディの正反対だった。外向的で饒舌、頑固で、人をうまく丸め込む才能があった。二人の平穏な生活は、第一次世界大戦の勃発と徴兵によって中断される。戦後、故郷に戻ったアディは、母が経営する洗濯場と、父から受け継いだ製靴の知識を活かし、1920年初頭に靴修理工房を開業した。
経営は順調だった。アドルフは靴修理の傍ら、サッカー、テニス、陸上用の革新的なスポーツシューズの開発に取り組んだ。 4年後、業務拡大に伴い兄ルドルフを誘う。1924年7月1日、「ゲブリューダー・ダスラー・シュポートシューファブリーク(ダスラー兄弟スポーツ靴工場)」が設立された。
役割分担は明確だった。アドルフが製造を担当し、生来の商才を持つルドルフが販売と流通を担った。創業当初は12人の従業員で1日50足の生産だったが、ルドルフが十数人のドイツ代表選手に自社製品を履かせることに成功すると、生産数は飛躍的に伸びた。その中には、1928年アムステルダム五輪800m金メダリストのリナ・ラトケもいた。
「優生学」にふさわしい靴
1933年、アドルフ・ヒトラーが政権を握る。スポーツはナチスのプロパガンダにおいて重要な役割を果たしていた。状況を察知したダスラー兄弟は、同年ナチス党(NSDAP)に入党した。これは著名選手へのアプローチを容易にするためのビジネス判断であり、政治的信念によるものではなかった。その典型が1936年ベルリン五輪での出来事だ。
大会は「優生学的優越性」の祭典と位置づけられていた。党員であった兄弟は、オリンピックスタジアムへの自由な出入りを許された。 アドルフはスパイクシューズをスーツケースに詰め、選手村へ向かった。そこで出会ったのが、黒人のアメリカ人短距離選手ジェシー・オーエンズだった。短い会話の末、アドルフは彼に自社の靴を履かせることに成功する。結果はご存知の通り、オーエンズは4冠を達成し、ヒトラーの鼻を明かした——ドイツ製の靴で。
五輪後の映画ニュースによる初の世界的露出もあり、兄弟の製品は「垂涎の的」となった。選手たちが「最高の靴」と信じたことで、年間売上は約20万足に達した。しかし、ビジネスの成功の裏には暗部もあった。
晩年、ルドルフは1933年までは兄弟関係が良好だったと認めている。転機は、アドルフの若き妻が会社の経営に口を出し始めたことだった。この振る舞いを「ルディ」は快く思わなかった。 互いに譲れる機会はあったはずだ。しかし、仕事後も同じ屋根の下で暮らしていたため、逃れることはできなかった。性格の不一致も重なり、1939年には兄弟関係は極限まで緊張していた。
「汚い野郎」
第二次世界大戦中、ルドルフは徴兵された。彼は、先に前線から戻り工場を監督していたアドルフが、自分を戦場へ送るよう仕組んだと疑った。アドルフがコネで徴兵を免れていたことは公然の秘密だった。ルドルフは密かに脱走し、弟が自分をビジネスから追い出そうとしていないか確認しようとした。
そんな折、連合軍の空襲で兄弟は防空壕に避難する。ある証言によれば、アドルフが壕の中で「また汚い野郎どもが来やがった」と呟いた。敵機を指していたのだが、入り口に立っていたルドルフは、自分への罵倒だと受け取ってしまった。
対立の真因は何か。工場の将来像が根本から食い違ったことに加え、金銭が絡んだ。1943年12月、工場に兵器製造用の機械が導入され、ナチスの対戦車ロケット弾「パンツァーシュレック」の製造に協力したことは、戦後の評判を大きく落とすことになる。戦後、アドルフはこの件で連合国の尋問を受けることになるが、告発したのは他ならぬルドルフだった。
1945年以降、共同経営は不可能になった。1948年、兄弟は決別する。アドルフが製造部門を、ルドルフが工場建物を受け取った。アウラハ川の両岸で、スポーツ用品市場の二大巨頭——アディダス(アディの愛称から)とルーダ(後にプーマに改名、ルディ率いる)——が誕生したのだ。
非スポーツマンシップな戦い
故郷ヘルツォーゲンアウラハは、二つの敵対陣営に分かれた。握手の前に相手の靴を見て、自陣営のブランドなら会話をし、そうでなければ無視する。ライバル企業の社員が通うレストランはボイコットされ、両社間の結婚は「裏切り」と見なされた。
1954年、アディダスが優位に立つ決定的出来事が起こる。サッカーワールドカップ決勝で西ドイツがハンガリーを3-2で破った「ベルンの奇跡」だ。本当に奇跡だったのか。多くの専門家はアドルフの靴——革製、スリーストライプ、着脱式スタッド——が勝因の大半を占めると指摘する。水浸しのピッチでドイツ代表が滑らずにプレーできたのは、この靴のおかげだった。 アディの写真が世界中の新聞を飾り、これ以上の宣伝はなかった。
ルドルフはこの屈辱を忘れなかった。「弟は俺の商才なしでは靴底一つ売れない」と長年主張し続けた。プーマは「アトム」スパイクで反撃に出る。多くの選手に提供し、広告を打ちまくった。しかし、世界王者たちは弟の靴を履き続けた。どんなに巧妙なマーケティングも、この事実を覆せなかった。
1956年、アディの息子ホルストがメルボルン五輪に派遣される。ルールを学び、アディダスの新規顧客を開拓するのが任務だった。当時20歳の彼は、さらに一歩踏み込んだ。オーストラリア港湾局がドイツ製スポーツ用品を差し押さえた際、英語が堪能なホルストはアメリカ選手たちを説得し、彼らに嘆願書を書かせて用品の「解放」を勝ち取った。同時に、巧妙にプーマの用品だけを大会終了まで差し押さえられたままにしておいたのだ。
金で買われる足元
ルドルフも黙ってはいなかった。プーマは新たな戦場——陸上競技場——を見つけた。金銭と用品を求めるアスリートたちが標的だ。
1960年ローマ五輪、男子100m決勝にドイツのアルミン・ハリーが出場した。この花形種目でプーマは一計を案じる。それまでアディダス一筋だったハリーを買収し、プーマの靴で走らせたのだ。そして彼は金メダルを獲得した。
アドルフは激怒した。さらに表彰式でハリーがアディダスの靴を履いて現れ、両方から報酬を得ようとしたことで火に油を注いだ。彼はアディダスからも金を要求したが、もちろん断られた。賄賂が新たな「弾薬」となった。
ルドルフはさらに仕掛ける。1966年ブダペスト欧州陸上選手権で、東ドイツのユルゲン・マイに500ドルを渡し、アディダスを履く同僚ユルゲン・ハーゼにプーマへの移籍を働きかけさせた。しかし、アディダス側のスタッフがこれを察知。ハーゼが10000mで優勝すると、東ドイツ政府に通報した。政治スキャンダルに発展し、マイは解雇された。ハーゼは金メダリストだったためか、お咎めなしだった。
広告は商売のてこ
プーマ史上最も有名な「仕掛け」は、1970年W杯決勝で起きた。ブラジル対イタリア戦、キックオフ直前、ブラジルの大エースが審判に靴紐を結び直す許可を求めた。カメラはその足元を捉えていた——ルドルフの工場で作られたプーマのシューズだった。
それだけではなかった。18分後に先制点を挙げ、試合終了後には世界一の栄冠を手にした。この一連の流れは世界中に放送され、その選手は「偶然の靴紐結び」の対価として12万ドルを受け取ったことが後に判明する。
選手の囲い込みは、両社にとって標準的な戦術となった。ダスラー兄弟は生涯、互いに戦い続けた。 兄ルドルフが1974年に、弟アドルフがその4年後に死去するまで。晩年に密かに和解したという噂もあるが、公式には決して認められなかった。結局、この確執こそが、数十年にわたり両ブランドのイメージと力を築き上げたのだから。
2009年9月、ついに両社の工場労働者たちが友好試合を行い、握手を交わした。アウラハ川の対岸に陣取った二つの敵対陣営の、長きにわたる争いがついに終わりを告げた瞬間だった。
参考文献
- トーマス・キストナー『FIFAマフィア』SQN、2014年。
- ダニエル・カラシ、ノルベルト・トカチ、ダビド・ツァイスキー『無冠のチャンピオンズ:ゴールデン・イレブンの伝説』アリーナ、2018年。
- ウカシュ・トミス『アディダス対プーマ:二人の兄弟、二つの会社。アドルフとルドルフ・ダスラー』ウカシュ・トミス出版、2017年。
- マウゴジャタ・ズディエホフスカ「靴の戦争」『Wprost』第3号、2006年。
- ジェニファー・バレット「The History of Adidas and Puma」『Newsweek』、2008年4月13日アクセス。
- ロベルト・クーン、トーマス・ティール「Shoes and Nazi Bazookas. The Prehistory of Adidas and Pumas」『Spiegel International』、2020年10月3日アクセス。