アメリカの舞踏家・教育者マーサ・グレアムは、「踊りとは身体の反映であり、ときには遊びであり、ときには苦痛である」と語りました。この言葉には確かな真実が込められています。1920年代から30年代のアメリカ、疲労で倒れ込むまで踊り続ける人々の姿は、絶望の時代の象徴となっていたのです。
息が尽きるまで、踊れ
ダンスマラソンのブームは1920年代に始まりました。1923年、アルマ・カミングスが6人のパートナーと交代しながら27時間ぶっ通しで踊り抜いたことがきっかけで、この新しい娯楽は一気に人気を博します。当初、参加者の動機は記録の更新そのものでした。しかし、時代と過酷な現実は、その目的を大きく変えていくことになります。
ダンスマラソンの最大の特徴は、誰でも参加できたことです。長時間のステージでは、踊りのスタイルや優雅さ、技術の巧拙など誰も気に留めません。求められたのは何よりも持久力でした。大会ごとの違いは主に運営面や「ゲームのルール」に見られましたが、唯一すべての大会に共通していたのは「参加者が眠ったり気絶したりしてはならない」というルールでした。ただし例外もあり、一部の大会では、あらかじめ定められた時間が経過すると、ペアのどちらか一方が数分間の仮眠を取ることが許され、もう一方は踊り続けなければなりませんでした。フロアを離れることが許されたのは、生理的欲求や医療相談の場合のみ。しかも一時的なもので、頻繁には認められませんでした。
参加者を彩った音楽も多彩でした。軽快でエネルギッシュな曲と静かな曲が織り交ぜられ、そのリズムに乗って、熱心な挑戦者たちは数日間、時にはそれ以上もフロアで踊り続けたのです。数週間に及ぶマラソンも決して珍しくありませんでした。こうした大会は全米各地で開催され、次第に移動サーカスのような様相を呈するようになっていきます。
25セントで見放題の「絶望のショー」
1929年10月、世界恐慌が勃発しました。人々は職を失い、生活の糧を失いました。誰もがどこでもお金を必死に探し求めていたのです。この事実を巧みに利用したのが、ダンスマラソンの主催者たちでした。1920年代から30年代の変わり目、主催者は参加者に高額な賞金を用意します。最も人気があったのは、数千ドル単位の賞金がかけられた大会でした。こんな困難な時代に、主催者はどうやって資金を工面していたのでしょうか。答えは観客からの入場料でした。大会は長期間に及んだため、多くの人々が見物に訪れたのです。わずか25セント(当時)で、誰でも好きなだけ長く観戦できました。そして、見るべきものは山ほどあったのです。
ダンスマラソンで唯一共通していたルールは、踊っている最中に眠ったり気絶したりしてはならない、ということでした。
ショーが本格的に白熱するのは、最初の踊り手が床に倒れ込む瞬間でした。ただし、1日や2日で倒れる人ばかりではありません。1930年8月29日から1931年4月1日まで踊り続けたマイク・リトフとイーディス・ブードローは、規則で認められた休憩時間以外はほぼ休みなく踊り抜き、歴史に名を刻みました。2人が手にした賞金は2,000ドル。今日の貨幣価値に換算すると約28,000ドルに相当します。それだけの価値があったのか?マイクとイーディスなら「イエス」と答えたことでしょう。しかし、マラソン反対派――彼らの数は決して少なくありませんでした――は、間違いなく首を横に振ったはずです。
踊るな、危険すぎる
医療関係者の中にも「反マラソン」運動に加わる人々が現れました。より意識の高い医師たちは、この種の極限の運動は健康とは無縁であり、体に取り返しのつかない変化をもたらしうると警告しました。慢性的な睡眠不足に陥った参加者は、さまざまな苦痛に悩まされました。足の水ぶくれ、捻挫、肉離れは日常茶飯事で、さらにヒステリー、譫妄(せんもう)、昏睡といった深刻な症状に至る例さえあったのです。あるホーマー・モアハウスという男性は、87時間ぶっ通しで踊った末に心臓が負荷に耐えきれず、ダンスフロアに倒れ込みました。蘇生措置も及ばず、彼は命を落としたのです。おそらく彼だけが犠牲者ではなかったでしょう。しかし、正確な死亡者数は二度と分かりません。主催者が関連する記録を一切残さなかったからです。
1929年10月、世界恐慌が勃発しました。人々は職を失い、生活の糧を失いました。誰もがどこでもお金を必死に探し求めていたのです。この事実は、主催者たちによって巧みに利用されました。
ダンスマラソンの批判者は他にもいました。映画館のオーナーたちは、客を奪われることを懸念していました。聖職者たちは男女が密着して踊る姿を快く思わず、女性団体は金のために争う踊り手たちの振る舞いに屈辱を覚えていたのです。
この物語の転機となったのは、失恋した女性が19時間のダンスの末に5位に終わり、自殺を図ろうとした事件でした。これは1928年、シアトルで起きた出来事です。市当局はほぼ即座にダンスマラソンの開催禁止に踏み切りました。しかし、他の都市がシアトルに続くまでには数年の歳月が必要でした。大恐慌の時代、為政者の手元にはもっと差し迫った問題が山積みだったのです。
現代へ受け継がれた「善きマラソン」
現在、ダンスマラソンは慈善イベントの一環としてよく開催されています。適切な安全管理のもとで行われ、数週間も続くことはなく、集められたお金は困窮する人々へと寄付されます。一例が、通称THONとして知られるペンシルベニア州立大学のダンスマラソンです。1977年以来毎年2月に開催される46時間のチャリティーダンスマラソンは、これまでに小児がんとの闘いのために1億5,500万ドル以上を集めています。
参考文献:
Paula Becker, Dance Marathons of the 1920s and 1930s https://historylink.org/File/5534(参照日:2021年10月2日)
https://dance.lovetoknow.com/Dance_Marathons(参照日:2021年10月2日)
https://www.jestpozytywnie.pl/stawka-bylo-ich-zycie/(参照日:2021年10月2日)