歴史物語

「イザウラの奴隷少女」――社会主義ポーランドを熱狂の渦に巻き込んだブラジル製ソープオペラ

ポーランドの家庭にテレビが普及すると、毎週、大勢の視聴者を画面の前に釘付けにする連続ドラマが次々と登場した。『四人の戦車乗りと一匹の犬』『こちら07、応答せよ』『命より大きな賭け』といった国産作品や、『刑事コジャック』『富豪たちの天気』などの海外ドラマが大きな注目を集めた。しかし、最大のヒット作となったのは、多くの人に「俗悪なキッチュの代名詞」とみなされた番組だった。

ここで取り上げるのは、ポーランド人民共和国初となる本格的なソープオペラ――『イザウラの奴隷少女』である。原作はベルナルド・ギマランイスによる奴隷解放をテーマにした小説で、色白の美しい奴隷娘イザウラと、綿花農園主レオンシオ・アルメイダとの物語が描かれる。恋愛模様を主軸とする、いかにもラテンアメリカ風のメロドラマだ。もちろん、ヒロインが幸せをつかむまでには数々の障害が立ちはだかる。俳優の顔のクローズアップを多用して緊張感を高め、登場人物の感情を強調するという、このジャンル特有の演出も随所に見られた。

主演には、当時18歳でテレビ初出演となったルセリア・サントスと、映画・舞台で活躍していた40代の実力派俳優ルベンス・デ・ファルコが起用された。当初は時代劇好きの常連向けの、ありふれた衣装ドラマのはずだった。ところがこのソープオペラは、ポーランドを含む世界のテレビ史に残る大人気作へと変貌を遂げる。ラテンアメリカ諸国にとどまらず、フランス、イタリア、オーストリア、フィンランド、ハンガリー、そして中国でも熱狂的に受け入れられた。放送国は合計130か国に上り、一般市民だけでなくフィデル・カストロのような著名人まで虜にした。

「イザウラ熱」は視聴率の高さだけにとどまらなかった。フランスでは放送時間帯の交通事故件数が減少し、ハンガリーでは外務省に、主人公をレオンシオの手から買い取ってほしいという現金入り封筒が殺到したという。この資金は、後に主演俳優らが同国を訪問した際に正式に引き渡されている。

中でも最も熱狂的だったのが中国である。中国のテレビ局がルセリア・サントスに最優秀女優賞を贈ったことがその証左で、これは同国史上初となる外国人芸能者への授賞だった。

イザウラ現象はヴィスワ川のほとり(ポーランド)にも押し寄せた。ただし当初、大成功を予測する者はいなかった。しかしほどなくして、レオンシオだけではない――多くの人々が奴隷娘の魅力から逃れられないことが明らかになったのだ。

ヴィスワ川ほとりの「イザウラマニア」

ポーランド人民共和国の時代は、間違いなくポーランドの映画・テレビ制作にとって実り多い時期だった。監督、脚本家、俳優ら映像制作に携わるクリエイターたちは能力の限界に挑み、当時の観客のみならず現代人からも高く評価される作品を次々と生み出していった。

それゆえ、カンヌのテレビ見本市で『イザウラの奴隷少女』を購入したレフ・ルィヴィンは、このシリーズが自国で広く受け入れられるかどうか、完全には確信できていなかった。それでも火曜夜の放送枠には何らかの番組が必要だった。さらにブラジルのグローボ局の担当者が、パイロット版を無料で提供するうえ、残りのエピソードにも好条件の割引を提示してくれた。こうしてイザウラはポーランドの家庭にやって来て、後は歴史が語るとおりとなった。

「イザウラの奴隷少女」――社会主義ポーランドを熱狂の渦に巻き込んだブラジル製ソープオペラ

主役を演じたルセリア・サントス。

第1回は1985年2月19日午後8時15分に放送された。オリジナル版は全100話、各30分弱のシリーズだったが、ポーランドではこれを統合し、多少カットして約1時間×全15話とした。初回の視聴率は43%と平均よりやや高い程度だったが、『イザウラの奴隷少女』の視聴率はたちまち上昇し、ピーク時には90%超(平均81%)に達した。

放送時間ともなると街から文字通り人が消え、理髪店などの一部の店舗は、客も従業員も次のエピソードを見逃さずに済むよう営業時間を短縮した。視聴者層は極めて幅広く、ほぼあらゆる階層の人々がテレビの前に集まり、その中には詩人ヴィスワワ・シンボルスカの姿もあった。登場人物の運命を知りたいという欲求は強く、ポーランド・テレビ(TVP)には朝の再放送を求める要望が殺到した。

拝啓 テレビ局御中。私どもはビトム広告工業の三千人の職員一同です。第二勤務シフトの者たちは隔週ごとにしか視聴できないため、映画『イザウラの奴隷少女』を再放送してくださいますようお願い申し上げます。このシリーズは非常に興味深く、登場人物たちのその後の運命を最後まで知りたいのです。

この熱狂は生活のさまざまな場面にも及んだ。新生児への命名もその一つで、「イザウラ」「トビアシュ」「マルウィナ」という名の子どもが次々と誕生した。店先でも公園でも大学の構内でも、登場人物の行方をめぐる議論がどこででも交わされた。3か月あまりの放送期間中、ポーランド人は灰色の日常から心を切り離し、まったく別の世界に思いを馳せる貴重な息抜きを得たのである。

灰色の現実からの逃避

人気はあまりに絶大だったため、ポーランド・テレビは主演のルセリア・サントスとルベンス・デ・ファルコをポーランドへ招待することを決めた。彼らのツアーを包んだ熱気は、後年、教皇巡礼の際の熱狂になぞらえられた。二人が現れるところどこでも群衆が出迎え、時には危険なほどの状況になることもあった。車から降りられなくなったり、イザウラ役のサントスが興奮のあまり失神したりする場面すら見られた。

目の当たりにした多くの人々――映画批評家を含めて――は頭を抱えた。誇張されていてキッチュな物語が、なぜ一国を丸ごと魅了したのか。心理学者や社会学者が後に示したように、『イザウラの奴隷少女』はポーランド人そのものにではなく、当時の彼らのニーズに訴えかけたのである。そしてその最大のものこそ、人民共和国の灰色の現実からの逃避願望だった。視聴者にとってこのシリーズは、手の届く形で提供された異国情緒あふれる新鮮な娯楽であり、街中で起きていることや政治の動向からしばし目を背けることを可能にしてくれた。

「イザウラの奴隷少女」――社会主義ポーランドを熱狂の渦に巻き込んだブラジル製ソープオペラ

1985年5月、クラクフ。大人気シリーズ『イザウラの奴隷少女』のブラジル人俳優、ルセリア・サントスとルベンス・デ・ファルコの訪問。

無垢で虐げられた奴隷娘が悪徳な主人のもとから逃れ、善良で裕福なアルヴァルに保護されるという感傷的な物語は、当時のポーランド国内制作のドラマとはひと味違う息抜きでもあった。もちろん、それだけが本作の受容のされ方ではない。多くのポーランド人は、国内の状況ゆえに奴隷とされたイザウラに自分自身を重ね合わせた。また、きわめて個人的な形で受け止めた人々もいた。

私はこのイザウラのような気分です。辱められ、レオンシオに追い回される。男は残酷になり得ます。私自身が身をもって経験しました。

奴隷になったのはレオンシオの方でした。言ってみれば、愛の奴隷です。人はそこまで愛せば奴隷になるのです。それについては私が一番よく分かります。

『イザウラの奴隷少女』は時代の空気に完璧に適合し、他のどのシリーズもその成功を繰り返すことはできなかった。その後の年月は政治的にも文化的にも大きな変化をもたらした。テレビの編成は拡大し、西側の作品が大量に流れ込んで、再び大勢の視聴者をブラウン管の前に引きつけていった。しかし、ポーランド・テレビ史上最大のサプライズとなったのはやはりイザウラだった。後続のラテンアメリカ制作ドラマへの道を開いただけでなく、文化的・社会的記憶に深い刻印を残したのである。

参考文献

  1. Wajda, 「イザウラの奴隷少女」は人民共和国時代にポーランド人の心をつかんだ, Focus.pl, 2020年6月15日/閲覧日:2021年9月19日。
  2. 「イザウラの奴ザウラの奴隷少女」の俳優たちがポーランドを訪れたとき、ワルシャワは熱狂した。街では「レオンシオ、この豚!」との叫び声が上がった, metrowarszawa.gazeta.pl, 2018年10月10日/閲覧日:2021年9月19日。