歴史物語

帝政ロシアにおける人身売買――「商品」として売られた農奴たちの実像

帝政ロシアにおいて、農民は領主の「所有物」でした。領主は彼らの人生を思いのままに処分することができ、農民とは結局のところ「一つの商品」にすぎなかったのです。

農民を縛る仕組みの始まり

ロシア農民の隷属状態が最悪の形をとりはじめたのは、16世紀末のことです。それ以前、1497年までは、法律で定められた手続きを踏めば、農民には主人を変える権利がありました。

主人を替えることができたのは、「ユーリーの日(聖ゲオルギーの日)」と呼ばれる期間、すなわち11月19日から12月3日までのわずかな期間だけでした。

ところが1581年(または1584年)、イヴァン雷帝がこの規定を廃止します。農民たちがどれほど失望したかは、「ほら、おばあさん、ユーリーの日だよ」という諺が生まれたことからもよくわかります。期待を裏切られたときに使われるこの言葉は、今日でもなおロシアで使われ続けているのです。

不要になった使用人はどうする?

その後の数十年で、支配層による農民への束縛はますます強まっていきました。たとえば逃亡農民の捜索期間は、1597年には5年、1644年には15年と延長され、1649年にはツァーリ・アレクセイが「農奴の逃亡には時効を設けない」と決定しました。

ボリス・キェルジェンツェフ著『捕らわれのロシア 農奴制の歴史』によれば、その息子で改革君主として知られるピョートル1世の時代に、次のような状況が完成しました。

農奴を、贈り物にしたり、質入れしたり、市場で卸でも小売でも売り払ったりできる「神聖な財産」とみなす、功利的な見方が最終的に確立したのです。

帝政ロシアにおける人身売買――「商品」として売られた農奴たちの実像

さらに1747年には、ピョートル1世の娘エリザヴェータが、地主に対し「商人や他の地主の兵役義務の身代わりとして農民を新兵にすることを目的に、農民や使用人を売ること」を許可しました。こうしてロシアの農奴制は、人間そのものを対象とした取引へと明確に転落していったのです。

売りに出される結婚

『捕らわれのロシア』には、人間が売買された取引の実例が数多く記録されています。農民は、公開の市などで買い取られることもありました。

ある老宮廷使用人は、女主人が「少年や娘、男30人をひとまとめに」選び抜き、彼らをウリュピンスク市の市場広場へ連れて行かせたと語っています。「ウリュピンスクへ向かうときになると、村じゅうが泣き声に包まれたものだ」と、その使用人は回想しています。

帝政ロシアにおける人身売買――「商品」として売られた農奴たちの実像

市場に出向けない地主のために、ロシアの新聞には使用人購入の広告が掲載されていました。『モスクワ・ヴェドモスチ』紙には、次のような告知が載っています。

「不要な宮廷使用人を売ります。靴職人22歳、その妻――洗濯女(…)。下着類(…)。オストジェンカ309番地にて実物をご覧いただけます。」

キェルジェンツェフが指摘するように、同じ広告には「軽種の若い栗毛の犬6頭、馬具一式付き」という売却情報も併記されていました。栗毛の犬の価格は1200ルーブル、一方、夫婦の値段は400〜500ルーブル。人間が犬よりも安く売られていたという、あまりにも残酷な事実です。

タラス・シェフチェンコ――幸運をつかんだ農奴

農民は単なる商品、利益の源泉でしかなかったため、所有者は彼らの心の状態など気にとめませんでした。夫は妻から、子は親から、兄弟はきょうだいから引き離されていきます。そして機会があるごとに彼らは利用されました。その好例が、タラス・シェフチェンコです。

1814年から1861年にかけて生きた、この傑出したウクライナの詩人・画家・民俗学者もまた、農奴として生まれました。所有者はワシリー・エンガルガルト。11歳で孤児となった少年は、主人の領地で羊飼いとして働いていました。

帝政ロシアにおける人身売買――「商品」として売られた農奴たちの実像

やがて少年は絵画の才能を見せはじめますが、エンガルガルトは使用人が絵を描いているのを見つけるなり、殴るよう命じました。ところが時が経つにつれ、彼は考えを変えます。タラスとその芸術こそ、自分の収入源になると気づいたのです。

1831年、エンガルガルトはタラスを連れてサンクトペテルブルクへ移りました。そこで少年は画家ワシリー・シリャーエフのもとへ修業に出されます。シェフチェンコが絵の技術を磨けば、それで大いに儲けられると期待してのことでした。

修業中、タラスは夜になると密かに、ロシアの首都で最も美しい庭園の一つである夏の庭園へ忍び込み、そこに置かれた彫刻をスケッチしていました。そんな折、運命は彼に同郷の画家イワン・ソシェンコとの出会いをもたらします。ソシェンコのおかげで、才能ある少年の悲しい境遇は、当時の一流芸術家たちの耳に入ることになりました。画家カール・ブリューロフ、アレクセイ・ヴェネツィアノフ、そして詩人ワシリー・ジュコーフスキーです。

人間の命の値段

新しい友人たちは、シェフチェンコを自由の身にしてサンクトペテルブルクの美術アカデミーで学ばせるため、身請けすることを決めます。エンガルガルトは、当時としては法外な金額――純銀45キログラムに相当する2500ルーブル――と引き換えに、ようやく解放に同意しました。

しかし、そんな大金を持ち合わせている芸術家たちはいません。そこで彼らは知恵を絞ります。カール・ブリューロフがワシリー・ジュコーフスキーの肖像画を描き、それを競売にかけ、得られた資金をエンガルガルトに渡すという作戦です。

タラスの窮状は、ニコライ1世の家族の耳にも届きました。皇后アレクサンドラ・フョードロヴナが400ルーブル、皇太子アレクサンドルと皇女マリアが600ルーブルを拠出したのです。1838年5月4日、ジュコーフスキーの肖像画は無事に売れました。農奴からの解放を証明する書類を受け取った瞬間、シェフチェンコは涙ながらに「自由! 自由! 自由!」と繰り返したといいます。

こうしてタラスはサンクトペテルブルク美術アカデミーでの学びを始めましたが、彼に最大の名声をもたらしたのは画家としてではなく、詩人としてでした。

農奴制廃止への長い道のり

ここで疑問が浮かびます。ロシアの為政者たちは、農奴制の犯罪的な本質を認識していたのでしょうか? 答えは明確な「イエス」です。しかし地主と貴族は安価な労働力と従順な使用人にあまりにも慣れきっていたため、君主たちは長いあいだ、この恥ずべき体制にメスを入れる勇気を持てなかったのです。

たとえばエカチェリーナ2世は、腹心の廷臣との内密な会話の中で、農奴制を部分的にでも廃止しようものなら、貴族たちに「私刑(リンチ)」に遭いかねないと語っています。

帝政ロシアにおける人身売買――「商品」として売られた農奴たちの実像

彼女の子孫たちもまた、農奴制の実態を十分に理解していました。1801年、エカチェリーナ大帝の孫アレクサンドル1世は、人身売買広告の新聞掲載を禁止します。しかし貴族たちはすぐさま抜け穴を見つけ、今度は農奴の「雇用」広告を掲載するようになりました。これは要するに、「偽装した売りの申し出」にほかなりませんでした。

続くニコライ1世は農民家族の引き離しを禁じましたが、この勅令もまた守られませんでした。『捕らわれのロシア』が記すように、「常態化した乱用はあまりに日常的なものとなり、それこそが正しいことのように扱われていた」からです。

農奴制をついに廃止したのは、アレクサンドル2世でした。1861年2月19日のことです。

参考文献

  1. Kierżencew B., Captive Russia, 2021.
  2. КРЕПОСТНОЕ ПРАВО (КРЕПОСТНИЧЕСТВО), https://w.histrf.ru/(2021年10月11日閲覧)
  3. T. シェフチェンコ博物館公式サイト, https://museumshevchenko.org.ua/(2021年10月11日閲覧)