歴史物語

「女性は自由なポーランドのために戦うべきだ」――ポーランド独立戦争(1914-1921年)における女性兵士たちの知られざる苦闘

男性社会が女性に割り当てた役割:看護婦、炊事係、あるいは「前線の売春婦」

1914年から1921年にかけてのポーランド独立戦争期、祖国のために銃を取って戦おうと志願した愛国心あふれる女性たちは少なくなかった。しかし、ユゼフ・ピウスツキ率いるポーランド軍団の男性指揮官たちの目には、彼女たちはもっぱら「看護婦」「炊事係」、そして皮肉にも「前線の売春婦」として映っていたのである。

画家の妻、男装して従軍する

彫刻家ゾフィア・トルチンスカ=カミンスカ(24歳)は、画家の夫ジグムント・カミンスキを驚かせる行動に出た。1915年9月、彼女は髪を切り、軍服を調え、「ジグムント・タルウォ」と名乗って男装し、第2旅団ポーランド軍団の騎兵隊に潜り込んだのだ。夫は日記にこう記している。「妻がルブリンで第2旅団に加わり、第一次世界大戦の戦闘前線へ向かった。どう対処してよいか分からない出来事だった」と。

ゾフィアは「美しい背丈、強健な体格、何世代にもわたる優れた栄養状態を示す体躯。自信、絶対的な勇気、衝動性を感じさせた」と夫に評される存在だった。しかし、家族総出で「狂女」を連れ戻す騒動となり、1ヶ月半後に正体が発覚。彼女は家族に説得され、軍団での戦いではなくワルシャワ美術学校で彫刻を学ぶ道へ戻された。

「一時的な性転換」――男装の女性兵士たち

ピウスツキは開戦前、約300人の女性ライフル隊を擁していたが、初戦後に解散を命じ、1914年9月10日には「軍隊に従う女性たち」をクラクフへ送り返すよう命令した。指揮官・兵士たちが「女性と共に戦う」ことに強い抵抗感を示したためだ。

それでも戦場に立ちたい女性たちには、男装して「一時的に性を変える」という極端な選択肢があった。ゾフィアのようにすぐ発覚する者もいれば、18歳のワンダ・ゲルツのように長く務め上げる者もいた。「当時、少女が兵士になるなんて考えられなかった」と回想するゲルツは、「カジミェシュ・ジュホヴィチ」と名乗り、砲兵として入隊。徴兵検査をうまくかわしたが、同期の新兵たちにはすぐに気づかれた。「軍曹が君を女だと見抜いたから検査を免除されたんだろ」と因縁をつけられ、「軍曹は君のことも女だと言ったぞ!」と機転を利かせて切り抜けたエピソードが残る。

小柄で非力な彼女は、凍った地面から杭を引き抜くような重労働に苦しみ、正体がバレる恐れから医者にもかかれなかった。馬に蹴られ脚を重傷を負い、視力も一部失ったが、最後まで治療を拒み続けたのである。

ポーランド軍における「グラジナ」たち

1918年、独立ポーランドが再建されると、初の女性軍事組織「義勇女性軍団(OLK)」が結成された。ゲルツはヴィリニュス支部長としてボリシェヴィキとの市街戦に参加し、従軍記者から「ハンサムで機転が利く。カーキ色の上着、青いスカート、タイトな帽子、ハイブーツという女性大隊の制服を着こなしていた」と評された。彼女は最終的に少佐まで昇進し、少女時代の夢を大きく超えた。

しかし、ゲルツのように前線部隊で戦えた女性はごく少数だった。男装して潜り込んでも、指揮官に見抜かれて後方勤務に回されるのが常だった。女性兵士たちはミツキェヴィチの叙事詩に登場する勇敢なヒロインにちなんで、戦友たちから「グラジナ」と呼ばれた。

売春宿計画と女性指揮官の抗議

1918年11月、ポーランド・ウクライナ戦争(リヴィウ攻防戦)とポーランド・ボリシェヴィキ戦争が勃発すると、急ごしらえのポーランド軍は女性を衛生・警備・輜重・連絡などの補助部隊に徴募した。前線での戦闘任務は依然として「想定外」だった。

1919年12月、軍務省は衝撃的な決定を下す。「女性は前線で、別の役割――売春婦として役立つ」と。前線地域の住民へのレイプ防止と性病蔓延抑制を名目に、野戦売春宿ネットワークの設置が計画されたのだ。

義勇女性軍団司令官アレクサンドラ・ザグルスカは激怒し、直ちにピウスツキへ抗議に駆けつけた。軍の長は彼女の主張を受け入れ、売春宿計画は白紙に戻された。

最前線で命を懸けた女性たち

ザグルスカ(36歳)は軍内での女性への冷遇を嘆きつつも、任務を全うした。側近のヘレナ・ブイヴィドは看護婦を拒否し、リヴィウで銃を取って戦い、正確な射撃で武勲を立てた。

衛生兵や連絡兵は「華々しくない」とされたが、決して安全ではなかった。攻撃時、看護婦たちは兵士たちのすぐ後方を走り、負傷者を探して応急処置を施した。1919年8月、ベレジナ川でのボリシェヴィキとの戦闘で、衛生兵のズジャルスカとヤシンスキーは前進する歩兵中隊に随伴した。ヤシンスキーが即死する中、ズジャルスカは独りで25名の負傷者と3名の戦死者(中隊員90名中)を処置し、榴散弾が飛び交う荒野を駆け回った。「松葉杖が耳元をかすめ、衣服や包帯袋、帽子を弾き飛ばす」――彼女の手記にはその凄まじさが綴られている。

ズジャルスカは女性蔑視、軍内の窃盗と泥酔に悩まされ、ボリシェヴィキだけでなく味方の兵士からのレイプを最も恐れた。1920年6月、キエフからのポーランド軍の混乱した撤退時には、酔っ払った兵士たちを避けて野原をさまよい、「パデレフスキ」装甲列車を探して負傷者の手当てに奔走した。

忘れ去られた英雄たち

対ボリシェヴィキ戦争に従軍した女性は延べ約2,000名に上った。ワルシャワ直撃の危機に直面して初めて、純粋な戦闘部隊として「義勇女性軍団前線大隊」(約400名)が編成されたが、ワルシャワの戦いには直接参加せず、赤軍敗退後にロシア難民の掃討任務に就いた。

全員が生還したわけではない。ワルシャワの戦い直後の9月、フチフワ川での戦闘で看護婦テレサ・グロジンスカ(21歳)が捕虜となり、納屋に監禁された末にレイプ未遂に遭い、斧で抵抗したところをサーベルで殺害された。

戦後、女性たちの功績と犠牲は速やかに忘れ去られた。義勇女性軍団は1922年に解散させられ、将校団は露骨に喜び、女性志願兵たちは深い悲しみに暮れた。のちに女性軍事訓練を指導するマリア・ヴィテクはこう記している。「軍団員を除隊させることは、彼女たちにとって最も辛い仕事だった。中には冬の寒さの中、行き場を失い家なき子となった者もいた。彼女たちは、心血を注いだ軍隊から甚大な不当な仕打ちを受けたと感じて去っていった」

出典

本稿はマルチン・シマニアク著『Szable i Cekaemy』(ザンク・ホリゾント出版、2022年刊)の抜粋に基づく。