彼はドイツ国防軍最高位の将帥の一人であり、ヒトラーが最も信頼した人物でもあった。しかしニュルンベルク裁判では、かつての敵であるソ連(ボリシェヴィキ)側の証人として法廷に現れたのである。
1943年初頭、東部戦線におけるドイツ軍の状況は絶望的だった。フリードリヒ・パウルス上将軍率いる第6軍は、数か月にわたりスターリングラードのソ連軍防衛線を突破できずにいた。さらに1942年11月末からは包囲網(カッセル)に閉じ込められ、補給も途絶えがちになった。兵士たちが輸送機で受け取ったのは食料や装備ではなく、命令書と……コンドームだったという。
それでも元帥は、部隊の悲惨な状況など顧みず最後まで抗戦を続けた。その結果、幾千もの兵士の死を招くことになった。「無謀な防御」と「遅すぎた降伏」への非難は、生涯にわたりブーメランのように彼へ突き返され続けたのである。
捕虜となった元帥
パウルスが降伏したのは1943年1月31日のことだった。その直前、ヒトラーは彼を元帥に昇進させている。総統はこの昇進によって、将軍が軍と運命を共にする――すなわち自決する――ことを期待していたのだ。しかしパウルスは命を絶たず、第6軍の残存兵力はソ連軍の捕虜となった。これを知ったヒトラーは激怒した。「ドイツの元帥が捕虜になるなど前例がない! パウルスは意気地なしだ!」と叫んだと伝えられる。一方、プロパガンダはスターリングラードの戦いでドイツ兵は一人残らず全滅したと報じた。
捕虜生活の最初の数か月、パウルスは強情で近寄りがたい態度を崩さなかった。以前から鬱状態に悩まされていたにもかかわらず、NKVD(ソ連内務人民委員部)による脅しにも屈しなかった。彼は、ドイツ側が自分とスターリンの息子ヤーコフ・ジュガシヴィリ中尉との交換に応じてくれることを期待していた。しかしソ連の指導者はこれを一蹴した。「元帥を中尉と交換することはない」。興味深いことに、ドイツ側も交換にはあまり関心を示さなかった。彼らはパウルスが自ら死を選ぶことを期待していたのである……。
ウィルヘルム・アダムは、対ソ戦中、フリードリヒ・パウルスに最も近い側近の一人だった。
元帥はクラスノゴルスクの捕虜収容所に送られた。収容所での最初の日々について、ウィルヘルム・アダムは著書『困難な決断――スターリングラードのパウルスとともに』の中で次のように綴っている。
捕虜生活には、どこか緊張と期待が伴っていた。私たちは未知のもの、いや不確かなものを、いくらかの高揚感をもって待っていた。しかしその感覚は、起床、三食、散歩、昼食後と夜間の休息といった単調な日課の中ですぐに消えていった。早朝と夜遅くには当直将校が宿舎を見回り、週に一度は風呂に入った。
捕虜になった直後、ソ連のプロパガンダは「ドイツの元帥がソ連軍の捕虜になった」という事実を最大限に利用しようとした。モスクワでは特別記者会見が開かれ、ジャーナリストたちに「最重要捕虜」が披露された。しかしパウルスはこの演出を快く思わなかった。当時の写真には、不快感をあらわにして質問への回答を拒む彼の姿が写っている。
権力への夢
時が経つにつれ、囚人の身となった元帥は故国への帰還の望みを次第に失っていった。彼はかつての敵に対して好意的な目を向け始め、協力の可能性についても考えを変えるようになった。転機が訪れたのは1944年の夏、ヴォイコヴォの捕虜収容所にどれほど多くのドイツ兵が送り込まれているかを目の当たりにしたときだった。
パウルスはついにヒトラーへの信頼を捨て、戦争の敗北を確信した。彼は「自由ドイツ国民委員会」に加わり、1944年8月8日にはドイツ国民とすべての捕虜となった兵士たちに向けて声明を発表した。敗北を受け入れ、ヒトラーを打倒せよ――それが彼の訴えだった。
しかしドイツ国内では、この呼びかけはほとんど重視されなかった。ナチスのプロパガンダ機関は、元帥の演説が流れる外国放送に国民がアクセスできないよう徹底し、禁令違反者には死刑を科した。さらにパウルス自身の信用失墜が事態を悪化させた。ソ連と協力した罪で、彼の家族までもが投獄されたのである。
ソ連軍の捕虜となった直後に撮影されたパウルス。
第三帝国の指導者打倒を訴える呼びかけが思うような反響を得られなくても、パウルスはエネルギーを失わなかった。彼はなお、亡命ドイツ政府の首相に就任し、捕虜のまま残る兵士たちで編成されたドイツ軍を指揮して赤軍と並んで戦う日を夢見ていた。だがその希望は空しく、元帥は次第にボリシェヴィキにとっても有用性を失っていった。
ニュルンベルク裁判
「最重要捕虜」が再び脚光を浴びたのは、1946年のニュルンベルク裁判においてだった。ソ連の主導により、彼は検察側の証人として出廷することになったのである。その登場は大きな波紋を呼んだ。被告席に座っていたヘルマン・ゲーリングは、法廷でパウルスを目にするや「汚らわしい豚め!」と怒号を浴びせ、アメリカ憲兵の介入によってようやく静まったという。
パウルスは、ボリシェヴィキによって入念に証言の準備を施されていた。彼はドイツによるソ連攻撃の計画過程を詳細に描写してみせた。ウィルヘルム・アダムは著書『困難な決断』の中で、そのときの様子をこう回想している。
パウルスは猛烈な勢いで仕事をしていた。裁判に関係していることは感じ取れたが、ラジオで彼が戦争犯罪人に対する証人としてニュルンベルクに出廷したと知ったときには驚いた。スターリングラードでの長い時間、ヒトラーの命令に縛られてヴォルガ河畔の包囲網に留まることを決めたあのとき、彼がこの戦争について苦言を漏らすことはほとんどなかったのに。
ニュルンベルク裁判におけるパウルスの出廷は大きな感情を巻き起こした。ソ連が入念に仕込んだ彼の証言は、一部の戦争犯罪人を追い詰めることとなった。
だが今、ニュルンベルクでの証言において、彼は戦争に対する明確な評価を示した。1940年秋以降、ナチス・ドイツが体系的に準備してきた対ソ戦争に至る経緯を、公然と暴き出したのである。
裁判の後、パウルスはソ連へ戻った。しかしソ連側の彼への需要はますます減っていった。西側で冷戦が激化するにつれ、「元ナチスの将軍が共産主義者と結託し、ドイツ人捕虜の軍隊を組織している」という噂が広まった。その軍隊が西ドイツへ進軍すれば第三次世界大戦が勃発する――有力週刊誌『デア・シュピーゲル』でさえ、そうした懸念を口にしたほどである。
もちろん、パウルスの軍隊が新たな戦争を引き起こすという懸念が現実になることはなかった。元帥は1953年10月、東ドイツへ帰還した。駅には、国防軍時代の旧友たちが出迎えた。かつてのナチスの指揮官は、今度は彼らに影響力を及ぼす役割を担うことになっていたのだ。東独の共産党政権は、彼が退役軍人たちを団結させ、東ドイツ軍の組織化に資することを期待していた。しかしこれらの構想は、さしたる成果を上げないまま終わった。
東ドイツ帰還後のパウルスは、旧国防軍将兵の交流と団結を図る役目を担ったとされる。写真は1954年の集会にて。
優雅な晩年と脅迫状
パウルスは人生最後の年月をドレスデン近郊で過ごした。エルベ川沿いの650平方メートルの別荘に住み、副官を付けられ、毎月3000マルクが口座に振り込まれた。瓦礫と化したドレスデンに貧困が蔓延するなか、パウルスだけは不自由しなかった。定期的に歌劇場に通い、テニスを楽しみ、仕立て屋でスーツを誂えた。女中や庭師を雇う余裕さえあった。時に届く脅迫状や、スターリングラードについての問い詰めはごく稀な出来事で、シュタージ(東独秘密警察)は彼の一挙一動を見張り続けていた。
元帥が死去したのは1957年2月1日のことだった。ヒトラーが最も信頼した部下の一人でありながら、彼は一度として処罰を受けることがなかった。ソ連の捕虜生活中に下した「協力」の決断が、祖国への安全な帰還を約束し、東ドイツでの安泰で裕福な暮らしをも保証したのである。最期まで、彼はまるで常に足の下で着地できる猫のようだった。