2020年は、ポーランド・リトアニア共和国の歴史において初めて貴族による王殺し(レジサイド)が企てられた事件から400年の節目にあたる。その標的となったのは、ヴァーサ朝のポーランド王ジグムント3世である。いったいどのような襲撃だったのか、そしてなぜ起こったのか?
1620年11月15日、日曜日の午前9時ごろ。ジグムント3世はミサに臨むため、聖ヨハネ参事会教会へと向かっていた。後に続くのはヤン・ウェンジク(プシェミシル司教)、アンジェイ・プルフニツキ(リヴィウ大司教)そして廷臣たちである。道順はいつもと同じ。城から参事会教会までは、ジェカニャ通りの上に架けられた屋根付き回廊が二つの建物を結んでいた。その回廊の突き当たり、扉のすぐ外側には、王を殺めんと待ち構える一人の男が潜んでいたのである。
ビェンコヴィツェとヴォドニキの領主
ミハウ・ピエカルスキは、ビェンコヴィツェ村とヴォドニキ村の共同相続人であった。幼少期に遭ったある事故がもとで精神を病み、気性は激昂と憂鬱を交互に繰り返すようになった。義兄にあたるクラクフ県知事ヤン・プワージのもとに滞在中には、料理人を殺害し、他にも数名に怪我を負わせたとされる。このため彼は独居監禁に処され、ジグムント3世はヤン・プワージともう一人の義兄弟エラスム・ドマシェフスキに対し、ミハウの保護者として認める裁定を下した。

ジグムント3世は、自らの恐るべき敵の存在を知らなかった。
サムエル・マスキェヴィチの日記にはこう記されている。
(...)義兄弟たちは彼を狂人あつかいにし、王に後見を願い出て財産を奪い去り、彼を独りぼっちで惨めな状態に追いやり、姿を隠してしまった。
こうしてピエカルスキは、自分の財産をすべて奪ったジグムント王を憎むようになった。ブルボン朝のアンリ4世が暗殺された(1610年)という報せを耳にしたとき、彼は自分のなすべきことを悟った。王殺しの計画は10年もの歳月をかけてミハウの心の中で熟成され、その間に彼は篤信的、いや敬虔すぎるほどの人物へと変わっていった。計画の成就を祈願するため、彼はチェンストホヴァへの巡礼まで果たしている。1620年、ジグムント王は病んだピエカルスキにさらに後見人を任命した。後見人は計5人となった。これが、彼の心に燻り続ける苦々しさに追い打ちをかけたのである。
タタールの脅威と暗殺未遂
オスマン帝国が戦争準備を開始したとの報せを受け、ジグムント3世は1620年3月中旬に大規模な動員令を発した。一方、クリミア・タタールも戦備を整え、8月にはポーランド共和国へ向けて進軍を開始した。主力の集結地はツェツォラと定められた。会戦は9月末から10月初めにかけて行われ、残念ながら共和国軍は敗北した。ワルシャワを覆う恐怖は、想像を絶するものだった。
ピエカルスキは参事会教会へ続く大扉の陰に身を潜め、こちらへ向かってくる王を待ち構えていた。その手には氷斧(チェカン)が握られていた。王が扉の前で立ち止まった瞬間、ミハウ・ピエカルスキは斧をジグムントに振り下ろした。通路が狭かったため、振りかぶった武器の全威力を発揮することはできなかったが、斧は王の背中と頭部に命中し、右耳・右頬・顎を負傷させた。王は倒れた。暗殺者はこの好機に乗じてさらに一撃を加えようとしたが、宮廷元帥ウカシュ・オパリンスキが杖で斧を打ち落とし、その企てを挫いた。ヴワディスワフ公も父を救おうと駆けつけたが、結果的には王殺し未遂犯に傷を負わせただけだった。

「チェカン(氷斧)」――アントニ・ストゥシャレツキ・コレクションより
狭い回廊は騒然となった。教会の中では人々が悲鳴を上げ、「王が殺された!」と口々に叫び始めた。さらには「タタール人がワルシャワに攻め込み、君主を冷血に殺害したのだ」という噂まで飛び交った。当時はまた、ジグムント3世によるスウェーデン王位確保の試みが失敗に終わって以来、ポーランドとスウェーデンの関係が緊張を極めていた時期でもあり、王を殺そうとした男は金で雇われたのではないかと疑われたのである。
裁き
裁判は迅速に進められ、判決は襲撃からわずか11日後に下された。王殺し未遂犯が死刑に処されることは最初から明らかだったが、それでも彼の行為は正式に断罪されねばならなかった。何しろ、貴族階級と共和国全体が深く傷つけられたのだから。
ミハウ・ピエカルスキの精神疾患は、情状酌量の要素としては一切考慮されなかった。このような罪を犯した以上、ピエカルスキは自動的に貴族の尊厳を剥奪され、したがって拷問にかけられる身分となったのである。法廷はさらに、犯罪者の人格を三つの位相に分けて断罪した。すなわち、社会的存在(事実によってすでに尊厳を剥奪されている)、法的存在(あらゆる権利を剥奪される)、そして人間的存在(人間性の欠如)である。
裁判官たちは、王への襲撃と罪人そのものの記人そのものの記憶を歴史から消し去ろうと、あらゆる手を尽くした。ピエカルスキの子孫は有罪とされ、いかなる役職にも就けないことになった(とはいえ、彼らについて伝わる記録はほとんどない)。ピエカルスキ所有の村々を破壊しようという動きもあったが、これは実行されなかった。代わりにその土地は、襲撃直後に真っ先に倒れた王を助け起こしたヤン・カリンスキに与えられた。

ピエカルスキの遺体は馬四頭で四つ裂きにされ、火刑台で焼かれ、最後には四門の大砲がその灰を四方へと撒き散らした。
王室元帥ミハウ・ヴォルスキは、判決の内容について次のように書き残している。
(...)まず、囚人が収監されている場所から引き出されると、死刑執行人とその手下たちによって、手足を縛られたまま特製の荷車に載せられる。座った姿勢のまま車体に縛り付けられ、執行人と手下たちはその傍らに道具一式を携えて座り、燃え盛る炎と赤熱した炭とともに、市場広場と市内の街路を引き回されるであろう。刑場に着くと、荷車から、意図的に地上八キュビット(約4メートル)の高さに設営された処刑台へと引き出される。そこで執行人は、輝ける王陛下を打った鉄の斧を彼の右手に握らせ、猛火の焔の上でその邪悪にして冒涜的な手を焼き尽くすのである。半ばよく焼けたところで剣をもって切り落とし、同じように左手も切り落とすが、こちらは焼かない。その後、四頭の馬によって身体を四つに引き裂き、四つ裂きの忌まわしい死骸は薪の山の上で灰塵に帰すまで焼かれる。最後に、火薬を込めた大砲が一斉に射撃を行い、その灰を空中へと散布するのである。
裁判官たちはピエカルスキの名を語り継がないよう努めたが、それでも「ピエカルスキさながらの責め苦」という言い回しだけは今日まで生き残った。処刑前、被告人は絶え間なく口を開き、支離滅裂なうわ言を吐き続けた。アルブレヒト・ラジヴィウの回想録によれば、ピエカルスキは聖書の一節を引用し、11月初めに天使が目の前に現れ、王殺しを命じたのだと説明したという。