5月3日憲法は政治的対立の渦中で生まれ、その採択は困難を極めた。ヨーロッパで最初、世界で2番目の成文憲法はいかにして成立したのか。そして、なぜその反対派は今日「国家反逆」の象徴とされるのか。
「おはよう、5月の夜明けよ、ポーランドの大地を照らせ。ポーランド中に知られた歌で君を祝おう」――5月3日のマズルカのこの歌詞は、多くのポーランド人に知られている。詞自体は11月蜂起(1830-31年)の時期に書かれたが、1791年の5月3日憲法採択を想起させるものだった。
この法令は変革と改革をもたらすはずだった。実際、改革の動きはもっと早い時期から始まっていたが、憲法こそがその時代の象徴、そして祖国救済のシンボルとなった。しかし第2次ポーランド分割の後、それは望みつづけた独立と近代国家への、叶わぬ夢と化したのである。
変革の時代
第1次ポーランド分割(1772年)後、国内で改革派の支持が広がった。変革の必要性は以前から、ポーランド啓蒙思想の作家たち――フーゴ・コウェンタイ、スタニスワフ・スタシツ、ユリアン・ウルシン・ニェムチェヴィチらによって説かれていた。彼らは貴族の堕落(酒色、怠惰、浪費)を批判し、自由選挙とリベルム・ベト(全員一致制)の廃止を訴えた。
騎士学校の学生たちや政治活動に携わる若者たちも改革派に加わった。最大の目標は、エカチェリーナ2世治下のロシアからの独立であった。
転機は1787年の露土戦争勃発に訪れた。ロシア女帝はポーランド・リトアニア共和国の支持を取り付けようとし、ポーランド・ロシア同盟承認のためにセイム(議会)を招集した。このセイムは1788年に開会し、1792年まで続いたことから「大セイム」または「4年セイム」として歴史に残る。
議長にはスタニスワフ・マワホフスキが就いた。最初の決議の一つは、「永遠の裏切り」と嘲られた「永久評議会」の廃止だった。これは国家の経済発展を担う最高行政機関だったが、実際には国王権力を制限し、議長がロシア大使オットー・マグヌス・フォン・シュタッケルベルクであったため、ポーランド人から憎まれていた。
さらに軍隊を2万4千から10万人に増強することが決議された。軍拡財源を賄うため、ポーランド・リトアニア共和国の歴史で初めて貴族と聖職者に課税が行われた。調達した資金で6万5千の軍隊が整備された。また、王領都市の市民が貴族称号や聖職、士官の道を得られる法律も制定された。
国民的合意
マワホフスキ議長、コウェンタイ、イグナツィ・ポトツキを中心とする改革派は、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ国王との合意を模索した。
新体制の基礎設計はイグナツィ・ポトツキに委ねられた。彼は国王の強硬な反対者だった が、互いの不信と見解の相違を超え、国王に新憲法起草への協力を要請した。この合意が、ポーランド共和国の政治体制を根本から変える憲法草案を生み出した。
1791年5月3日のセイム会期において、国王と改革派の共同立場が示された。 採決を決めた重要なポイントは、ポーランドが置かれた窮状と、列強によるさらなる分割の脅威が提示されたことだった。激しい討議の末、議員たちは合意に達した。「政府法」が成立し、ヨーロッパ初、世界で2番目の成文憲法 が誕生した。王宮前に集まった群衆は歓喜に沸いた。
政府法はポーランドとリトアニアの二重構造を廃し、単一国家「ポーランド共和国」を樹立した。三権分立を導入し、市民の権利を拡大、農民への保護規定を設け(将来的な地位改善の道を開いた)、リベルム・ベトと自由選挙を廃止して世襲王制へ移行した。
「反逆」の象徴――タルゴヴィツァ連盟
こうした急進的変革に反対するスタニスワフ・シェンシニ・ポトツキ、セウェリン・ジェヴスキ、フランチシェク・クサヴェリ・ブラニツキらは、エカチェリーナ2世と結託した。1792年、タルゴヴィツェの町で連盟を結成し、10万のロシア軍を招き入れて母国を攻撃させた。
ユゼフ・ポニャトフスキ指揮下のポーランド軍(ジェレニェツの戦いでの勝利を除く)は、圧倒的な敵軍を前に降伏を余儀なくされた。「タルゴヴィツァン(タルゴヴィツァ連盟員)」は国家反逆の象徴として権力を握り、5月3日憲法の条項を無効化した。 貴族特権、リベルム・ベト、自由選挙が復活した。1793年、ポーランド軍の降伏にもかかわらず、ロシアとプロイセンは第2次ポーランド分割を強行した。
その後、世代を超えてポーランド人にとって5月3日憲法は、誇りと自由、愛国心を示す象徴であり続けた。分割統治時代には、政府法採択の記念行事は厳罰をもって禁じられた。1918年の独立回復後にようやくセイムが5月3日を国民の祝日と認定したが、ポーランド人民共和国(共産主義政権)下では再び公的祝賀が禁じられ、民兵との衝突が頻発した。公的な祝賀が再び許されたのは1981年のことである。