歴史物語

ウィーン救済は実現しなかったかもしれない――ルイ14世、ソビエスキ王へ巨額賄賂で同盟阻止を画策

フスリア突撃、オスマン軍の大敗走、そしてポーランド史上屈指の大勝利

1683年、ウィーン救援戦におけるヤン3世ソビエスキ率いるポーランド・リトアニア共和国軍の活躍は、ヨーロッパの運命を変えた。しかし、もしフランス王ルイ14世の工作が成功していたなら、この歴史的転換点は訪れなかったかもしれない。

ハプスブルク家への執念──フランスの「東方政策」

フランスとハプスブルク家の対立は長く、血みどろの戦争の連続だった。神聖ローマ皇帝レオポルト1世の帝国がオスマン帝国の侵攻に直面したとき、ルイ14世は宿敵の窮地を好機と見た。彼はポーランド・リトアニア共和国を皇帝との同盟から引き剥がし、ポーランド軍がウィーンへ駆けつけることを阻止しようとしたのである。

「まさに王家の賄賂」──ド・ヴィトリ侯爵の暗躍

この王命を帯びてワルシャワに赴いたのが、フランス大使フランソワ・ド・ヴィトリ侯爵だった。オーストリアの歴史家ヨハネス・ザックスレーナーは著書『ウィーン1683──ヨーロッパの運命を決めた年』で、彼の工作をこう記す。「彼は豊富な『戦争資金』に手を伸ばし、ポーランドの使節たちを買収し、フランス側に引き込もうとした」

侯爵はマグナート(大貴族)への賄賂にとどまらなかった。なんとソビエスキ王本人への収賄を企てたのだ。ザックスレーナーによれば、彼はヤン3世にこう提案した。

「皇帝との同盟を破棄するなら、10万リーブルを支払う」

しかしポーランド国王は躊躇なく拒絶した。「金銭では、自らの義務と良心に反する行いをさせることはできない」と。

62キロの純金さえも跳ね除けた王

10万リーブルは当時のレートで純金約62キログラムに相当する巨額だった。この拒絶を受けてもド・ヴィトリは諦めず、マグナートたちへの工作を粘り強く続けた。その主たる協力者が、王冠領大蔵卿ヤン・アンジェイ・モルシュティン──バロック詩人としても名を残す人物である。

だがソビエスキも手をこまねいていたわけではない。彼の工作員たちはフランス大使館員2名を懐柔し、侯爵の陰謀を完全に把握していたのだ。

使者襲撃と暗号解読──諜報戦の果てに

確固たる証拠を得るため、ポーランド側はブランデンブルク公の使者(ド・ヴィトリとモルシュティンが利用していた)を襲撃し、グダニスク経由でパリへ送られる郵便物を検閲するほどだった。その結果、妥協を許さぬ決定的な書簡群がポーランドの手に渡り、王冠領大蔵卿とその一派を一網打尽にすることになる。

1683年3月16日、セイムでの決着

最終決戦は、ハプスブルク家との同盟可否を問うセイム(議会)で繰り広げられた。ザックスレーナーの『ウィーン1683』はその様子をこう描写する。

会議では、強力な「フランス派」議員たちがパンフレットやビラを配り、レオポルトとの同盟を阻止しようとした。しかしヤン3世ソビエスキは巧みに彼らを「祖国の裏切り者」「敵」として描き出した。

まず、イスタンブール駐在のポーランド代表サミュエル・プロスキの報告が読み上げられる。オスマン軍の大規模な武装準備が詳細に記されていた。そして、その恐るべき現実に対する衝撃的な対比として、国王はフランス大使ド・ヴィトリがルイ14世へ送った傍受・複写・解読済みの書簡を朗読させた。そこには、上院議員たちへの賄賂額が克明に記され、ポーランド貴族階級が「完全に腐敗している」と罵まれていたのだ。

貴族院は激怒した。ソビエスキはこの世論を利用し、皇帝との同盟を強行採決させた。モルシュティンは大蔵卿を解任され、議会法廷に立たされた。結局、彼がフランス宛てに書いた暗号文書が解読不能だったため刑罰は免れたものの、国外追放を余儀なくされる。妻の機転(暗号鍵を予め焼却していた)が命運を分けたのだ。

ド・ヴィトリ侯爵もまた、ソビエスキの要求により外交官を辞任し、宮廷への「最後の挨拶」を強いられた。その場で自らの告発内容をすべて撤回させられたのである。ザックスレーナーは記す。「ルイ14世はポーランドにおける失敗したフランス政策に見切りをつけた」

歴史の分岐点

この諜報戦と外交決戦の勝利があったからこそ、ソビエスキはウィーンへ向かうことができた。もしフランスの金が王を動かしていたなら、オスマン軍はウィーンを陥落させ、中欧の歴史は全く異なるものになっていただろう。金で動かせない「義務感」を持った一人の君主が、ヨーロッパの命運を分けた瞬間である。


出典

  • Johannes Sachslehner, Wien 1683. Das Jahr, das das Schicksal Europas entschied, Horizont 2018(日本語訳:『ウィーン1683──ヨーロッパの運命を決めた年』)