歴史物語

ピウスツキはユダヤ人を愛していたのか?――1918年の秘蔵インタビューが明かす真実

ピウスツキはユダヤ人を愛していたのか?

ポーランドの指導者ユゼフ・ピウスツキ(Józef Piłsudski)は、ユダヤ人に対してどのような態度を取っていたのか。この問いに対する一つの答えが、1918年、英系ユダヤ人の著名ジャーナリスト、イスラエル・コーエン(Israel Cohen)が行ったセンセーショナルなインタビューの中に残されている。

出典:米シカゴのユダヤ系雑誌「センチネル(Sentinel)」第173号、1935年6月6日付、8ページ掲載(英語)。

1935年、ポーランドの独裁者ピウスツキが死去すると、その死は世界中のユダヤ人によって悼まれた。しかし皮肉なことに、彼が率いた政府は、自国のユダヤ人市民に対して経済的な差別政策を敷いていた。では、ピウスツキは本当にユダヤ人を愛していたのだろうか。その答えとなるのが、17年前、コーエンがポーランドの指導者に行ったあの有名なインタビューである。ここに、その記録を初めて公開する。

ポーランドにおけるユダヤ人迫害(ポグロム)

(……)ピウスツキ元帥はゆっくりと入室し、咳をしていた。その姿は軍装そのもの――黒のズボン、高い襟と白い袖口のついた灰色の上着。着席するよう促されたとき、私が目にしたのは、鋭くも落ち着きのある視線、垂れた髭、そして短く刈り込んだ頭髪だった。いずれも、当時ポーランド中の至る所で目にした絵葉書でおなじみの姿である。どうやら風邪をひいていたらしく、鼻を拭うのに使っている一枚のほかに、数枚のハンカチがポケットから覗いていた。

ピウスツキはユダヤ人を愛していたのか?――1918年の秘蔵インタビューが明かす真実

本文は、ヨランタ・ジンドゥル(Jolanta Żyndul)著『ユダヤ人とピウスツキ――戦間期ポーランド・ユダヤ関係史のための資料選』(ŻIH〈ユダヤ歴史研究所〉出版局刊)からの抜粋である。

私はまず、英語、フランス語、ドイツ語のどの言語で話すかを尋ねた。「ドイツ語で」と彼は答えた。私は、ポグロムが内外に与えた悪い印象を受けて、イギリスからポーランドにおけるユダヤ人の状況を調査しに来たのだと説明した。

ピウスツキ:ポグロムが発生したのは、オーストリアの支配が突如として崩壊したこと、権力の空白、そしてユダヤ人商人への憎悪によるものだ。ユダヤ人は、戦争から利益を得た唯一の集団だったからである。確かに、世界中の商人が戦争で利益を得たのは事実だ。だがガリツィアでは多くのユダヤ人が商人だったため、憎悪は容易に彼らへと向かった。

コーエン:ポーランドの地主や農民もまた、戦争から利益を得ていたのではないでしょうか?

ピウスツキ:そうであれば、それはユダヤ人と取引をしていたからだ。怒りがユダヤ人に集中したのは、彼らが密売に関わり、ケットヒェンヒュンドラー(Kettenhändler、仲買人)として物価をつり上げていたからである。

「今の暴力は続けられない」

コーエン:政府はポグロムを非難するおつもりですか?

ピウスツキ:なぜ政府がポグロムを非難すると宣言することを期待するのかね? そんな声明を出せば、政府がポグロムの支持者で構成されているかのような印象を与えかねない。政府がポグロムを、あるいは誰に対するいかなる暴力をも容認していないことは、明白である。

ピウスツキはユダヤ人を愛していたのか?――1918年の秘蔵インタビューが明かす真実

ピウスツキによれば、ポグロムの原因は、ユダヤ人だけが戦争で儲けたことにあり、それがポーランド人の憎悪を呼び起こしたという。

コーエン:では、先週の日曜日にユダヤ人街のナレフキ通りで起きた発砲事件についてはどうお考えですか? 7人のユダヤ人が負傷しました。

ピウスツキ:深刻な事件だったとは思わない。まだ完全な報告を受けていないので、詳細を把握する必要がある。現時点で状況全体を見渡せば、こう言わざるを得ない。ポーランド人は親ユダヤ主義者(フィロセミット)ではない。それは認めなければならない事実だ。ポーランドには多くのユダヤ人が暮らしており、彼らは異質の集団を形成している。多くの者が、その排除を望んでいる。だが何よりもまず、ポーランド人は生来野蛮な民族ではなく、今日見られるような暴力は決して続かない、と言っておきたい。第二に、ポーランドの独立宣言が決定されたその時から、ユダヤ人には西欧の民主主義諸国と同等の権利が与えられていた。ユダヤ人だけを対象とした特別な法律は存在しなかったのである。

出典

本文は、ヨランタ・ジンドゥル著『ユダヤ人とピウスツキ――戦間期ポーランド・ユダヤ関係史のための資料選』(ŻIH〈ユダヤ歴史研究所〉出版局刊)からの抜粋である。