1916年夏、塹壕で生まれた伝説
1916年7月初旬に行われたコストゥフヌフカの戦いは、ポーランド軍団第1旅団の歴史において最も激しく血なまぐさい戦闘の一つとして知られています。しかしその決戦に先立つ数週間、兵士たちは塹壕の中で退屈な日々を過ごしていました。軍団史上最も有名な伝説――「ロシア軍がピウスツキの堡塁を爆破しようとしていた」という逸話は、まさにこの平穏な時期に生まれたのです。
第1旅団の兵士たちは1916年5月初めにコストゥフヌフカに到着し、第2旅団の部隊と交代しました。スティル川沿いに構えたこの陣地は、あらゆる意味で快適な場所でした。完璧に整備された塹壕、住み心地の良い掩蔽壕、穏やかな天候、そして敵の活動がほとんどない状況――心配すべきことは何もないように見えました。
ところが、ロマン・スタルジンスキは回想録『司令官副官としての四年間の戦争』の中で、「唯一の脅威は、我々の堡塁の下で行われていると言われるロシア軍の坑道掘削であるように思われた」と記しています。
この堡塁は、ポーランド(公式にはオーストリア)軍の防御線の中で最も前方に突出した要衝でした。敵陣まで約100歩という至近距離にあり、絶えず激しい銃火の応酬が交わされていたのです。この「モスクワ人の悩みの種」を敵が爆破によって排除しようと企てている――そんな噂が軍団兵の間に広まるのは、ごく自然なことだったのかもしれません。
ロシア軍は本当に坑道を掘っていたのか?
スタルジンスキによれば、この坑道掘削の話は第2旅団から「遺産」のように引き継がれたものでした。一方、後のポーランド第二共和国首相となるスワヴォイ・フェリツィアン・スクワドコフスキは日記の中で、この一件を公にしたのはアルビン・フレシャール「サテュロス」大尉であると述べています。彼は自らの掩蔽壕で地下作業を思わせる低いうなり声を聞き、ただちに上官へ報告しました。その上官とは、ミハウ・ジミェルスキ少佐――後に共産主義政権下でポーランド軍元帥にまで昇りつめる、あの人物でした。

ピウスツキ堡塁の測量図。第1旅団工兵中隊の伍長コモツキ技師がタキメーター測量により作成。図面と署名(原文表記)は『ポーランド軍団アルバム』(ワルシャワ、1933年)より。
誰が最初にこの話を明るみに出したかは重要ではありません。大切なのは、ジミェルスキ少佐がこの件を軽視できないと判断したことです。その日の夕刻、少佐はスクワドコフスキら数名の将校を伴い、フレシャール大尉が指揮する第6大隊の本部へ向かいました。
関係者の話を長時間にわたって聞いたところ、「うめき声のような音が聞こえる――時にはくぐもった、掘削作業のような音、時には反響する、つるはしでの作業のような音」とのことでした。隣接する掩蔽壕でも同じ音が確認されました。事態は深刻さを増していきます。もし噂などではなく、ロシア軍が密かにポーランド陣地を爆破しようとしているとしたら!?
確証を得るため、翌日にはその音の発生源から100歩以内に位置するすべての兵士が撤収させられました。絶対的な静寂の中、軍団兵たちの耳に再び届いたのは、相変わらず説明のつかない不審な音でした。
もはや誰もが、足元で何か怪しいことが起きていると確信しました。「特別に招いた工兵中隊長のドンブコフスキ氏でさえ、坑道掘削の存在には懐疑的だったものの、あのうなり声を説明できなかった」――とスクワドコフスキは後年回想しています。
そこで万が一に備え、堡塁が位置する砂地の「半島」全体を横断的に掘り進み、敵の計画を物理的に阻止することが決定されました。工兵たちは直ちに作業を開始し、数時間後には深さ数メートルの塹壕が完成。この塹壕は、後に堡塁の下に堅固な掩蔽壕を築く際の基礎となりました。
しかし、いくら深く掘り進んでも、ロシア軍の坑道掘削の痕跡は一切見つかりません!さらに協議を重ねた結果、掘削の続行を断念し、代わりに大量のエクラザイト(爆薬)を仕掛けて一気に吹き飛ばすことが決まりました。これで敵の企みを完全に粉砕できるはずでした。

コストゥフヌフカ付近のポーランド軍防御陣地。写真は『司令官副官としての四年間の戦争』(エリカ出版研究所、2012年)より。
爆破作戦の顛末
計画はそのまま実行に移されました。大爆発の時刻は5月8日夜から9日未明にかけての午前1時30分に設定されます。もちろん兵士の安全のため、爆破の間、ピウスツキ堡塁は一時放棄されました。ところが万事が順調に運んだわけではなく、大勢見物に集まった軍団兵たちの大きな不満をよそに、作戦はやや遅れてしまったのです。

そしてついに、スタルジンスキが記録しているように、午前3時20分に爆発が起こりました。しかしそれはあまりにも小さな爆発で、ほとんど印象を残しませんでした。どうやら爆発の威力は地中深くへと抜けてしまったようです。期待されたロシア軍の坑道の誘爆は、まったく起きませんでした。
さらに悪いことに、爆発後もロシア軍の作業痕は一切発見されませんでした。ただ、この「大げさな小爆発」の後、スクワドコフスキと同僚たちの耳に奇妙な音が聞こえることはなくなりました。当然ながら、一般兵士たちは工兵たちをからかい始めました。第1連隊のユーモアあふれる文書「平和会議」の一節――「誰が誰の下に穴を掘ろうと……それには大量のエクラザイトが必要だ」――を口々に引用しながら。
謎の解決と予想外の成果
結局、この坑道掘削は実在したのか、それとも幻だったのか?謎が解けたのは数日後のことでした。敵陣後方への襲撃作戦の際、ステファン・ビェルナッキ「ドンプ」大尉が、ツァーリ軍に従軍していたポーランド人捕虜を確保します。この捕虜は、ロシア軍による坑道掘削の計画を断固として否定したのです。
こうして伝説の正体は「噂」だったと判明しました。しかし、悪いことは良いことに転じるものです。この「地下騒動」のおかげで、軍団兵たちは頑丈な掩蔽壕を手に入れました。そしてこの掩蔽壕は、わずか2ヶ月足らず後に訪れるコストゥフヌフカの激戦において、彼らの命を守る貴重な避難場所となるのです。