ポーランド文学者になり、哲学者になりたかった男――しかし運命は別の道を用意していた。指揮官として最初の一歩を踏み出したとき、上官たちは彼を褒めちぎるばかり。彼は瞬く間に勲章とメダルの山を築き上げた。そして認めよう――それだけの価値は十分にあったのだ。
当初、彼が偉大な軍人としてのキャリアを歩む兆候はどこにもなかった。スタニスワフ・マチェクは、シェンキェヴィチやジェロムスキーの散文、カスプロヴィチの詩を愛する生粋の人文主義者だった。1910年、リヴィウの大学でポーランド語学と哲学の勉強を始めた。同時にポーランド射撃協会にも加入している――これこそが、彼の将来を決定づけることになった。
武勇に対して贈られた勲章の数々
第一次世界大戦が勃発すると、彼はオーストリア・ハンガリー帝国軍に召集された。その軍務の中で貴重な実戦経験を積み、予備役将校の任官資格を取得。さらにスキー、登山、そして機関銃の戦術的・突撃的運用に関する専門課程も修了した。戦場での功績により、幾度も表彰を受けている。

1930年代の写真。大佐時代のスタニスワフ・マチェク。
オーストリア・ハンガリー君主制の崩壊は、マチェクに再生した祖国へ戻る道を開いた。1918年11月14日、クロスノに赴いた彼はポーランド軍に志願。その後数ヶ月にわたりウクライナ軍やボリシェヴィキとの戦闘に参加し、奇襲作戦のスペシャリストとして揺るぎない評判を確立していった。

ポーランド・ボリシェヴィキ戦争でも、マチェクは最良の指揮官ぶりを発揮した。
昇進は早かった――まず大尉、続いて少佐へ。戦功が認められ、1920年10月23日にはポーランド最高の戦闘勲章であるヴィルトゥティ・ミリターリ勲章5等を受章し、数ヶ月後には武勇十字章も授与された。
この時期、スタニスワフ・マチェクは独自の指揮スタイルを確立していた。それはのちに第二次世界大戦の戦場で、彼に多大な成功をもたらすことになる。
彼は機動、奇襲、敵の側面への回り込み、型破りな行動、そして地形の最大限の活用によって、まず戦いに勝とうとした。そして必要とあれば、自ら陣頭に立って部下に模範を示したのである。
キャリアの転換点
戦間期、マチェクは軍人としての技量を磨き続けた。一歩ずつ新たな地位へと昇りつめ、上官からの評価は常に最優秀だった。1924年には高等軍事学校の一年課程を5位の成績で修了。しかし、キャリアにおける本当の転機が訪れたのは14年後のことだ。思いがけず、第10機械化騎兵旅団の指揮官に任命されたのである。
これはポーランド軍初の本格的な機械化部隊であり、実験的な性格を持つ編成だった。当時大佐だったマチェクへのこの人事は、彼の資質に対する大きな信頼の証だったといえる。
背景にあったのは、おそらく前線での経験と、演習から得られた知見だろう――演習の際、彼はトラックで移動する歩兵部隊を「その場で即席に」編成するのが大好きだったのだ。ちなみに、この旅団の指揮は本来ステファン・ロヴェツキ大佐(のちの「グロット」)が執る予定だったが、彼はこれを辞退していた。
旅団は第24騎兵連隊と第10騎兵連隊の2個機械化騎兵連隊と、いくつかの小規模部隊で構成されていた。さらに戦車大隊、機動砲兵中隊、工兵大隊、対空砲中隊、航空小隊が配属された。
スタニスワフ・マチェクが指揮を執ると、兵士たちにとって激しい訓練の日々が始まった。その成果は目覚ましく、短期間のうちにこの部隊は装備の充実ぶりにおいても、規律と練度においても、ポーランド軍の「顔」となる存在へと成長した。そしてヒトラーによる侵攻後もそれは変わらなかった――マチェクの旅団は、苛烈を極めた防衛戦を完全な形で戦い抜いた、ポーランド軍唯一の大型部隊だったのである。
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歴史を動かした偉大な指揮官たちの成功の秘訣については、書籍『ポーランドの戦争の神々』で読むことができる。本稿は、スタニスワフ・マチェクを扱う章からの抜粋である。