政治は女性の場ではなかった
19世紀末まで、「政治は女性の場ではない」というのが社会の共通認識でした。そのため参政権拡大をめぐる闘いは、当初は男子普通選挙の実現に向けられたものです。では、オランダの女性たちはどのようにして1919年に投票権を手にしたのでしょうか。
家庭に留まることが「美徳」とされた時代
19世紀のオランダにおいて、女性に公的な役割はありませんでした。この考え方には宗教的な背景があります。聖書の教えによれば女性は男性に従属する存在であり、その居場所は家庭の中にあるとされたのです。男女が対等の権利を持つべきという自由主義的な思想を支持するのはごく少数派で、多くのオランダ人女性にとって参政権はそもそも優先事項ではありませんでした。
比較政治学教授のモニーク・レイエナール(Monique Leyenaar)氏はこう説明します。「ほとんどの女性は生きるために懸命に働いており、政治にかかわる余裕はありませんでした。関心があっても、夫の許可が得られないこともあった。さらに1920年代の調査によれば、女性は新聞をほとんど読んでおらず、政治情勢に関する情報も乏しかったのです」
19世紀に工場が登場すると労働の機会は増えましたが、賃金は極めて低く、労働条件も劣悪でした。社会立法はまだ緒に就いたばかりで、老若男女を問わず働かざるを得ない時代です。だからこそ、女性が家の外で働かずに家事を切り盛りできることは、豊かさの証しと見なされていました。
法の「抜け穴」を突いた先駆者たち
女性参政権に関心を持っていたのは、恵まれた環境に育った女性たちでした。彼女たちには、善き目的に身を捧げるための時間と、何よりお金がありました。すべては自由主義的な家庭で育ったアレッタ・ヤコブス(Aletta Jacobs、1854〜1929)から始まります。彼女はオランダで最初に大学を卒業した女性であり、フローニンゲン大学で医学を学んだ後、同大学で博士号を取得した最初の女性でもありました。1879年当時、これは驚くべき快挙で、海外の新紙にも「女性による並外れた業績」として報じられました。
卒業後、ヤコブスはアムステルダムで開業医となり、すぐに成功を収めました。その結果、納税対象とみなされるようになります。当時(1883年頃)、オランダには納税額制選挙(センサス選挙)の制度があり、一定額以上の税金を納めていれば投票できたのです(基準額は都市によって異なる)。有権者の名前は選挙人名簿に載りますが、高額な税金を納めているにもかかわらず、ヤコブスの名前はそこにありませんでした。
納税額制選挙は1848年憲法に盛り込まれていました。ところが、憲法の制定者たちは「男性」とは明記していませんでした。憲法は「人」または「住民」と表現していたのです。つまり、憲法自体は女性の投票を排除してはいなかったわけです。ヤコブスは裁判に訴えましたが、結果は裏目に出ます。最高裁判所まで争われましたが、裁判官たちは「憲法が想定しているのは当然男性であり、そうでなければ女性を別途列挙していたはずだ」との判断を下しました。念のため、政治家たちは1887年の憲法改正で「男性」という言葉を明記しました。これでもう、永遠に明確になった——はずでした。
警察の暴力――イギリスとの対照
ヤコブスの抗議は国際的な注目を集め、彼女は女性の権利を求める闘いの象徴的存在となりました。彼女一人ではなく、1894年には女性参政権協会(VVK)が設立され、彼女も積極的な役割を果たします。とはいえ、ここでもまだ少数派の話です。1900年時点でVVKの会員はわずか千人ほどで、主に良家出身の自由主義的な女性たちでした。オランダでは、参政権を求める大規模な抗議行動は珍しいことだったのです。
イギリスやアメリカでサフラジェット(婦人参政権活動家)たちが繰り広げた激しい闘争——警察が暴力を振るい、女性たちが投獄された——は、オランダでは起きませんでした。レイエナール氏はこう語ります。「あちらでは警察の暴力がさらなる女性たちの反発を招きました。例えば窓ガラスを割るといった行動です。オランダのデモはずっと穏やかなもので、周囲の人々は介入するよりもむしろ笑って見送るくらいでした」
変わりゆく時代の空気
しかし時代の気運は変わりつつありました。世紀の転換期には世界各地で女性に参政権が認められ始め、ニュージーランドが1893年に世界で初めてこれを実現しています。宗教界の外側では、「なぜ女性が投票してはならないのか」と疑問を持つ人が増えていきました。VVKへの支持は拡大し、1916年にアムステルダムで開催された女性参政権デモには、約1万8000人が集まりました。
ただし、この集団がオランダの人口構成を反映していたかどうかは今となっては確かめようがなく、レイエナール氏はそうは考えていません。大多数の人々には、政治にかかわる余裕などなかったのです。そして何より、政治家たちはさほど動かされませんでした。1919年に選挙法が変更された最終的な理由は、別の場所にあったのです。
議会での攻防
VVKは当初、自由主義系・社会主義系の政党やその男性指導者たちと緊密に連携していました。しかしこの協力関係は数年で終わりを迎えます。政治家たち、とりわけ社会民主労働党(SDAP)は、女性参政権を男子普通選挙の実現に従属するものと考えていたからです。社会主義者たちは、あの「上品な淑女たち」をあまり信用してもいませんでした。彼女たちが影響力を使って、労働者階級の女性を含む全女性ではなく、富裕な女性だけのための納税額制参政権を実現しようとするのではないかと警戒していたのです。
結局、成人男性全員に選挙権が与えられたのは1917年のことで、革命を経ることなく実現しました。これは下院で取り決められたもので、社会主義政党が男子普通選挙と引き換えに、教派政党の望む宗教教育への国庫支出を認めたのです。しかし、この取引で最大の成果である女性参政権までは勝ち取れませんでした。
社会主義者たちが危惧したのは、女性参政権も同時に求めれば、教派政党が男子普通選挙に賛成しなくなるのではないかという点でした。教派政党は女性参政権に強く反対しており、政治に口を出すことで女性が家事や家族のケアという務めから遠ざかると考えていたのです。
革命への恐怖が鍵を握った
教派系の政治家たちは、納税額制選挙から男子普通選挙への段階的な拡大に対しては、思想的な異論を抱いたことはありませんでした。それに対して女性の普通選挙は一線を越える話であり、1917年の時点では「現状凍結」に同意するにとどまりました。そのため奇妙なことが起こります。1918年の総選挙では、SDAPのスゼ・フローネウェフ(Suze Groeneweg)という女性が下院議員として当選したのに、彼女自身はまだ投票すら許されていなかったのです。
1918年、男子普通選挙下で初めて行われた総選挙の大勝者は、予想された社会主義政党ではなく教派政党でした。これは女性参政権の将来にとって好ましくない状況に見えました。それでも教派政党が最終的に譲歩したのは、ヨーロッパの不安定な政治情勢ゆえです。第一次世界大戦は終わりに近づき、ドイツでは革命的な空気が漂っていました。1918年11月、政治家ピーター・イェレ・トロルストラ(Pieter Jelle Troelstra)は、外国の例に倣ってオランダの労働者に権力掌握を呼びかけたのです(いわゆる「赤い週」の始まりでした)。
結局、革命は起こりませんでした。しかし当時の政治家たちにそれを知る由はありません。レイエナール氏はこう説明します。「調査の結果、女性は社会主義政党ではなく教派政党に投票し、政治的に安定した要素になると示されていました。これこそが、教派政党がその後、女性普通選挙に同意した実利的な理由です」。実際、それは彼らにとって損になりませんでした。1922年の総選挙で教派政党は圧勝を収めたのです。
教派に属する女性たちは法律を遵守し、説教壇からの投票指示に従いました。とはいえ、レイエナール氏によれば、それが政治情勢や各党の政策を理解していたことを意味するわけではありません。「女性の間には無知が広がっていました。もちろんテレビはなく、女性はほとんど読書もしませんでした。情報を得るには集会に行くしかなく、その時間のない人がほとんどでした。投票では信仰に従い、女性の権利のために闘っていたSDAPなどではなく、教派の候補に票を投じたのです」
消えなかった壁
1922年の勝利の後、女性は教派政党にとって重要なターゲット層となり、自由主義系・社会主義系の団体に対抗する形で、さまざまな政治団体が次々と誕生しました。女性たちはそこで情報を得て会員になることができましたが、同時に「家庭第一」だと教え込まれました。結婚すれば、政治を含む仕事は過去のものとなるのが当然視されていたのです。レイエナール氏は「こうした制約があるにもかかわらず、女性たちは1970年代まで圧倒的に教派政党に投票し続けました」と述べています。
第二次世界大戦後になっても、上院と下院を合わせた女性議員の割合は7%にとどまっていました。彼女たちは主に恵まれた出自を持ち、大学教育を受け、未婚であることが多かったのです。母親はそもそも候補者リストに載ることすらありませんでした。
レイエナール氏はこう締めくくります。「教派政党は1919年に考えを改めたわけではありません。女性をついに政治の領域に迎え入れるべきだと感じたのではなく、純粋に実利的な選択だったのです。それゆえ、党内に女性を迎え入れることへの消極性も説明できます」。結局、初の女性閣僚が誕生するのは第二次世界大戦後のことでした。1956年、カトリック人民党のマルガ・クロンペ(Marga Klompé)がオランダ史上初の女性閣僚となったのです。