1961年、南極のソ連観測基地で行われたこの自己手術は、瞬く間に世界中でセンセーションを巻き起こしました。ロゴゾフ医師の偉業は、ソ連国民に大きな誇りをもたらしました。なんとわずか2週間前、世界はガガーリンの宇宙飛行を知ったばかりだったのです。ソ連人は再び、しかもこれほど短期間のうちに「不可能」を成し遂げ、冷戦下の米ソ競争においてアメリカを追い抜いたのです。
若き医師が称賛された理由はもう一つあります。それは、人生が決して彼に甘くなかったという事実です……
苦難の道のり
レオニード(愛称ローニャ)は1934年、バイカル湖近くの小さな村に生まれました。父は運転手、母は酪農場で働いていました。一家の暮らしは貧しく、「クラーク(富農)」とみなされてアルマトイへ強制移住させられた際には、状況はほぼ悲劇的でした。多くの人にとってこの処罰は餓死を意味しましたが、未来の外科医となる少年の家族は、生き延びただけでなく故郷への帰還さえ果たしたのです。
少年には兄と姉がおり、後に妹ワレンチナ(ワーリャ)が生まれると、ローニャはその世話を担いました。大祖国戦争が勃発すると父は前線へ赴き、1943年に戦死。母は家族を養うため毎日働き詰めでした。こうして家事と妹の面倒を見る責任は、ローニャの肩にかかることになったのです。

戦後、彼は7年制学校を卒業し、鉱夫を目指す職業学校へ進学しました。本人はその道にあまり興味がありませんでしたが、寮と奨学金が支給されるため、母親の負担を軽減できるのが最大の魅力でした。妹ワーリャの回想によれば、常識に基づいて職業を選んだにもかかわらず、兄は学業に真摯に打ち込み、成績はすべて「優」だったといいます。
しかしレオニードには、もっと大きな夢がありました。高校を卒業し、軍隊勤務を経て、レニングラードに住む兄を頼って旅立ちます。ネヴァ川の街はローニャを魅了し、彼は実家に戻らないことを決めたのです。
冒険への渇望
ロゴゾフは現地の医科大学に入学し、好成績で卒業した後、博士論文の準備を始めました。しかし、病院や診療所での日常業務こそ、ローニャが最も望まないものでした。彼の心は、刺激的な出来事と冒険に満ちた人生を強く求めていたのです。
1960年夏、レオニードは「ソ連の南極観測隊が医師を募集している」という知らせを受けました。彼はすぐに志願し、秋には南極へ向けて出発しました。母は息子の願いを理解し、温かく祝福を送りました。
レオニードの荷物には大量の本と……32kgのダンベルが入っていました。南極へ向かう道中、彼は家族や友人に絵葉書を送り続け、自身の無事を伝えるとともに、旅の印象を綴りました。
執刀医であり、患者でもある
南極の基地で、医師は観測隊員たちの健康を管理していました。ところが1961年4月29日、今度は自分自身が助けを必要とすることになります。腹部右側に激痛が走り、発熱と吐き気に襲われたのです。診断は明白——虫垂炎(盲腸)でした。ロゴゾフは、誰も助けに来てくれるわけがないと悟りました。外は猛吹雪で、飛行機は飛べなかったからです。炎症を抑えようと抗生物質を服用し、腹部を冷やしましたが、すべて無駄に終わりました。手術は避けられなかったのです。

写真:ノボラザレフスカヤ基地で唯一の医師として、自分自身への手術を行うロゴゾフ
基地には他に医師も医学教育を受けた人間もいなかったため、ロゴゾフは同僚たちを訓練することにしました。気象学者アレクサンドル・アルテミエフが器具を渡す係、整備士ジノヴィイ・テプリンスキーが照明の担当、そして基地長ウラジスラフ・ゲルボヴィチは、誰かがショックで失神した場合に蘇生させる役割を担いました。
レオニードは器具を消毒しましたが、指先の感覚を失わないよう、あえて手袋なしでの手術を決断します。腹腔が胸部によって遮られ直視できないため、ロゴゾフは触覚と解剖学の知識だけを頼りにしなければなりませんでした。手術中、彼は脚を30度に上げた半座位の姿勢をとりました。
処置は1961年4月30日、モスクワ時間22時に開始されました。助手たちは白衣を着用。レオニードは自ら麻酔剤を投与し、効いてきた22時15分にメスを手に取り、12cmの切開を入れました。この瞬間、同僚たちは卒倒寸前になりました。怯える仲間を落ち着かせるため、ロゴゾフは冗談を言い、微笑んだのです。そして——後年の回想によれば——周囲を一切顧みず、手術に全神経を集中しました。
22時30分、彼はめまいと脱力感を覚えます。そこで30秒間の休憩を取り、それから……作業を続けました。縫合が完了すると、抗生物質の注射と睡眠薬が投与されました。時刻はすでに真夜中。数日後には熱が下がり、手術の成功が確実となったのです。
名声の重み
ロゴゾフの偉業は大きな反響を呼びました。1962年に南極からレニングラードへ戻ると、市当局は彼に2部屋のマンションを与えました。何千人もの女性から愛と敬意の言葉が届き、レオニードは袋いっぱいの手紙を受け取ります。その中の一人、マルチェラという名のチェコスロバキア人女性と親しくなり、二人はついに結婚へと至りました。
その後も彼はレニングラードの研究所で研究キャリアを続けました。あの記念すべき手術で使用した器具は、ネヴァの街にある北極・南極博物館に収蔵されています。科学者は2000年、胃癌のためこの世を去りました。