イタリアの都市ピサといえば斜塔が有名だが、実はこの街、かつて世界で最も重要な港湾都市の一つだったことをご存じだろうか。科学者たちはこの古代の港「ポルトゥス・ピサヌス」の正確な位置と歴史の復元に成功した。かつて栄華を誇ったこの港は、海につながる入り江が土砂の堆積で埋められ内陸湖と化したことで、やがて姿を消していったのである。
ポルトゥス・ピサヌスについては、6世紀初頭のローマの文献『Itinerarium Maritimum』(「海上旅行案内」――地名と距離を列挙した一覧)や、5世紀初頭のローマ人作家ルティリウス・ナマティアヌスの詩などに言及が残されている。ルティリウスの記述によれば、ポルトゥス・ピサヌスは天然の良く遮蔽された湾に抱かれた、繁栄する商業港だった。しかし、その湾は正確にはどこにあり、港に何が起きたのか。これまで科学者はこの問いに確かな答えを出せずにいた。
天然の良港だった
状況が変わったのは、フランス、イギリス、イタリアの地質学者と考古学者からなる国際チームが、完新世(約1万年前から現在まで)におけるこの地域の環境と海面変動を復元したことがきっかけだ。それによると、紀元前200年頃、港は現在のピサの南約20キロメートルに位置していた。これは文献記録や考古学的発掘調査で既に示されていたことと一致する。さらに今回の研究で、当時そこには海への良好な航路を持つ、確かに遮蔽された湾が存在していたことが結論づけられた。
しかしその後、海面上昇とデルタへの堆積物の蓄積の影響で、環境は大きく変化していく。西暦1350年頃には、土砂の堆積によって海とのつながりが徐々に失われ始め、1500年頃には湾は閉ざされた沿岸湖へと姿を変えた。16世紀末にはリヴォルノに新しい海港が建設され、ポルトゥス・ピサヌスの役割を引き継ぐことになった。
複数分野のデータを統合
研究チームは、複数の生物学的・地質学的な調査手法を組み合わせてこれらの結論に至った。発掘された堆積物、花粉、植物遺体の分析と放射性炭素年代測定により、過去のいつ、どこに深海があったのか、あるいは干潟のような浅い海域、淡水湖、陸地が広がっていたのかを特定し、当時の海面の高さも復元した。
さらに、人間活動の証拠となりうる木炭片や、難破船の遺物も発見している。こうした知見を古地図や古文書と照合することで、復元は完成した。
アムステルダム自由大学の地質考古学者スフールト・クライヴィング氏(本研究には不参加)は「徹底した研究だ」と評価する。「人々は港がかつてどこにあったのかをおおよそ知っていたが、今や正確な場所、そしてとりわけ『なぜ』消滅したのかが明らかになった」。同氏は研究者たちの仕事ぶりを高く評価しており、「例えば海面の復元は31地点での測定に基づいており、これはかなり多い数だ」と指摘する。
クライヴィング氏によれば、特に考古学、地質学、生物学という異なる分野のデータを組み合わせたことが、衰退していった港の物語に説得力と完全性をもたらしているという。
ポルトゥス・ピサヌスの歴史
「ポルトゥス・ピサヌス」という名が初めて登場するのは、5世紀初頭のルティリウス・クラウディウス・ナマティアヌスによる紀行詩においてである。しかし街の歴史ははるかに古い。早くも紀元前7世紀にはエトルリア人がこの集落に住み着いていたが、当時はまだ海岸線に直接面していた。ローマ人の到来とともに街は軍事拠点へと変わり、紀元前1世紀にはピサとその周辺は退役軍人の植民地となった。兵士たちは軍務を終えると、ここで土地を与えられたのである。
おそらく417年、ルティリウスがこの街を描いたとき、街はすでに重要な交易センターへと成長していた。彼の体験は紀行詩『De reditu suo』(「わが帰還」――故郷ガリアへの帰路を綴った作品)に反映されている。彼は海藻に囲まれたポルトゥス・ピサヌスの賑わいと富を称賛し、街を取り囲む緑豊かな丘ではイノシシ狩りを楽しんだという。これらの森林の木材と川の粘土は陶器の焼成の原料となり、陶器はこの地方で最も重要な交易品の一つだった。
5世紀末の西ローマ帝国の崩壊とゲルマン諸族との戦争の後、ポルトゥス・ピサヌスは一時的な大低迷期を迎える。破壊、飢饉、疫病が街を襲ったのだ。しかし一世紀後のランゴバルド人の到来とともに、港町は再びゆっくりと活気を取り戻し、交易も増加していった。中世にはピサはイタリア屈指の港湾都市へと成長したが、旧港はすでに内陸に深く入り込みすぎていた。1300年から1400年にかけて、ピサの人々は街の西部に要塞化された新しい港を建設した。これが「リヴォルノの港」としても知られる港である。