歴史物語

第二次世界大戦中の記者たち――ナチス・プロパガンダに加担したオランダ人SS従軍記者の実像

第二次世界大戦については、特に5月4日・5日(オランダの戦没者追悼の日と解放記念日)を中心に、今なお多くの語り継ぎや著作が生まれています。しかし、戦争中に起きた出来事そのものは、当時どのように「ニュース」として人々に伝えられていたのでしょうか。

ナチス・ドイツのプロパガンダ体制

1933年、アドルフ・ヒトラーがドイツの政権を掌握しました。彼の政府において重要な役割を果たしたのが、ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝大臣が率いる新設の宣伝省です。同省は社会全体に向けてプロパガンダを展開し、国民に戦争の必要性を信じ込ませようとしました。そのためにゲッベルスはあらゆるメディアを駆使しました。新聞、ラジオ、映画、演劇に加え、積極的な宣伝活動や反宣伝キャンペーンまで含まれます。メディアは宣伝省による完全な検閲下に置かれ、異論を唱える声はほとんど聞かれることがありませんでした。軍事パレードを伴う大規模な集会は、国民感情をさらに煽り立てることを目的としていました。

SSに加わったオランダ人記者たち

第二次世界大戦が勃発すると、ドイツのプロパガンダ機構はオランダなどの占領地域でも活発に動き始めました。5年間の占領期に、占領当局は膨大な数のポスター、映画、ラジオ放送、新聞を配布しました。親独メディアには国家社会主義(ナチズム)イデオロギーの擁護と新兵の勧誘という役割が課せられました。ポスターや映画は演出されたものでしたが、ニュースの取材には記者が必要でした。

1941年夏、オランダ人志願兵で構成された武装親衛隊(Waffen-SS)の部隊「オランダ軍団」が東部戦線へ出発しました。彼らはロシアにおける共産主義の脅威と戦うために募集されていました。この軍事行動を記録するため、SS内部に新たな部隊「プロパガンダ中隊(Propaganda Kompagnie:PK)」が設立されました。

オランダ人PKは約50名からなる独立した部隊で、記者8名、写真家4名、映像カメラマン2名、技師4名を含むラジオ報道チーム、さらに運転手、整備員、補給将校、炊事係で編成されていました。

PKに志願したオランダ人はさまざまな階層の出身でした。高等教育を受けた者もいましたが、将来のSS記者、すなわち「クリークスベリヒター(Kriegsberichter=従軍記者)」の大多数は、ジャーナリスト、ラジオレポーター、カメラマン、写真家として何らかの経験を持っていました。出身背景は多様でしたが、彼らをつないでいたのはNSB(オランダ国家社会主義運動)とのつながりでした。彼らはボルシェヴィズムの脅威を確信していました。ロシアの共産主義がヨーロッパを呑み込み、それを撃退できるのは国家社会主義だけだという考えです。イデオロギーに加え、一部の若者にとっては冒険への憧れも動機の一つだったのでしょう。

軍事訓練と検閲

武装親衛隊の旗の下に入ると、PKの隊員たちは軍事訓練を受けました。彼らは従軍記者・宣伝要員であると同時に、兵士でもあったのです。他の兵士から孤立しないよう、SSの制服を着用し、軍規に服従することが求められました。主な任務は戦争報道でしたが、必要とあらば武器を手に取ることもありました。

前線に到着したPKの隊員たちが書いたのは、現実味のあるニュースではほとんどありませんでした。自分の意見や批判的な姿勢は報道において歓迎されず、すべての記事はベルリンのドイツ軍検閲を通過し、必要に応じてプロパガンダと兵員募集の方針に合わせて修正されました。開戦1年後以降は、死者の写真が掲載されることはほとんどなくなりました。新兵募集の妨げになるからです。東部戦線での殺戮を好意的に見せるため、クリークスベリヒターたちはロシア兵を「武装解除する」という表現を用いて記事を書きました。

エロティック・プロパガンダ

PKの従軍記者たちは、故国の民衆向け、敵側向け、そして自軍の兵士向けという3つの対象に向けて「ニュース」を執筆し、撮影しました。それぞれの目的に応じて、異なるメディアとメッセージが使い分けられました。

国内向けには、勝利の物語と兵員募集のための宣伝文句に満ちたニュース速報が使われました。前線で制作された映画は、ドイツ兵が一緒に食事をする様子や新しいビール樽を受け取る場面など、兵士の日常を映し出していました。しかしドイツ本国の民衆とは異なり、オランダの人々はSS記者たちに敵意を抱いていました。彼らの報道はほとんど取り上げられず、NSB系メディアでさえ例外ではありませんでした。1943年以降、ドイツの敗北が重なるにつれ、勝利を謳うラジオ報道、映画、写真、絵画、記事はますます信憑性を失っていきました。そこで焦点は次第に、兵士の日常生活の描写や敵の悪魔化へと移されていきました。

一例として、ドイツはアメリカ軍とイギリス軍の間に亀裂を入れようと試みました。不貞な妻への不安を煽り、快く応じるイギリス人女性と駆け落ちするアメリカ兵を描いたエロティックなポスターを配布したのです。こうしたプロパガンダのポスターやビラは、飛行機から撒かれたり、気球から吊るされたり、専用の発射装置で撃ち込まれたりしました。砲弾の中にはビラが詰め込まれていたものさえありました。

また、東部戦線にいるオランダ人SS隊員の士気を維持するためのニュースも作られました。「De Vermolmde Bolshevik(打ちのめされたボルシェヴィキ)」のようなプロパガンダ新聞は、兵士たちが手にできる数少ない前線や祖国の情報源となることが少なくありませんでした。しかし紙面の大半を埋めていたのは、彼ら自身も前線にいたクリークスベリヒターたちでした。彼ら自身、オランダや戦線の他の地域で何が起きているのかをほとんど把握できないことがよくありました。

予想外に軽かった刑罰

4年間にわたり、PKは色付けされたニュースを流し続けました。オランダからの反応は概ね冷淡でしたが、若者たちの心を動かしたことは否めません。約23,000人のオランダ人が武装親衛隊に勤務しており、ロシアに関する脅しのような報道や栄光ある戦いを描いた記事が、その一部の入隊を決意させたことは間違いありません。

戦後、オランダ人PK記者の大多数は逮捕され、政治犯収容所に送られました。1947年から従軍記者に関する最初の裁判が始まりましたが、判事たちはこれらの元SS隊員をどう扱えばよいのか戸惑っていました。彼らは記者なのか、それとも兵士なのか。結局のところ、武装親衛隊への勤務歴こそが最大の減点要素となり、科された刑罰は5年から15年の懲役と幅がありました。

長い刑期を科されたのはPK隊員だけではありません。戦後、多くの戦争犯罪者だけでなく、いわゆる「怪しい」と目されたオランダ人たちにも厳しい判決が下されました。数年の時を経て、多くの者が過剰に処罰されたのではないかという感覚が芽生え始めました。これはクリークスベリヒターたちにも当てはまり、1950年以前にほぼ全員が赦免されました。釈放はされたものの、市民権は剥奪されました。彼らのほとんどは、二度とジャーナリズムの世界に関わることはありませんでした。

参考文献

  • Arnold Karskens, Plasters on the eyes. Dutch war reporting from Heiligerlee to Kosovo(Amsterdam 2001)
  • Gerard Groeneveld, Kriegsberichter. Dutch SS war reporters 1941/1945(Haarlem 2004)
  • Black Soldiers, Dutchmen in the Waffen-SS