歴史物語

脳疾患がスターリンをさらに残虐にした――主治医の秘密日記が明かす独裁者の実像

ロシア紙モスコフスキー・コムソモーレツはこれまで、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの主治医の一人だったアレクサンドル・ミャスニコフの秘密日記の断片を公表してきた。同医師によれば、スターリンは長年にわたる脳の疾患を患っており、それが独裁者を偏執的で疑い深くし、元々備えていた残忍さをさらに強める結果となったという。英紙インディペンデントが報じたものである。

死後の解剖で判明した病状

ミャスニコフは日記の中で、1953年3月5日にスターリンが死亡した後、自身と同僚たちがどのように遺体の解剖を行ったかを詳細に記している。

「我々は重度のアテローム性動脈硬化症(血管の詰まり)を発見した。この病気は明らかに数年かけて進行しており、スターリンの思考や行動に重大な影響を及ぼしていた可能性がある」

医師はさらにこう書き綴っている。

「病気のせいで、スターリンは善悪、健康と不健康、敵味方を見分ける感覚を失っていた。私がスターリンに見つけた疾患は性格特性を増幅させる作用があり、もともと疑り深い人間を偏執的な人物へと変えてしまうのだ」

ミャスニコフによれば、ソ連は何年もの間、重篤な病人によって統治されていたのである。

推定4230万人が非業の死

スターリンは1928年から1953年まで、強権をもってソ連を支配した。秘密警察KGBの推計によれば、彼の政権下では4230万人が非業の死を遂げたとされる。スターリンは大量の市民をグラーグ(強制収容所)へ送り込んだ。これは過酷な環境の土地に設けられた労働収容所であり、何千人もの人々が飢え、寒さと極度の疲労の中で命を落とした。死の直前には、シベリアに4つの新型メガ・グラーグを建設すると発表し、さらに軍幹部を「共産主義の敵」から再び「粛清」したいとの意向を明らかにしていた。

ミャスニコフの日記――その真贋は疑う余地がない――は、近現代史における最大級の謎の一つに答える手がかりとなるかもしれない。すなわち、スターリンのような独裁者をあれほどの存在にした要因は何だったのか。言い換えれば、スターリンの犯罪は完全に理性的な判断によるものだったのか、それとも別の何かが関わっていたのか、ということである。

「血に飢えた小人」ベリヤ

ほぼ同じ時期、ラヴレンチー・ベリヤの日記もロシアで現れた。1941年から1953年まで、彼はNKVD(ソ連内務人民委員部)、すなわち恐れられた国内治安機関のトップを務め、スターリンに次ぐソ連で最も有力な人物だった。「血に飢えた小人」として知られ、見せしめ裁判や公開処刑を好んだことで悪名高かった。さらに、若い少女や女性に度々乱暴を働いていたともされる。スターリン自身でさえ、娘スヴェトラーナをベリヤのそばに近づけたがらなかったほどだ。当然ながら、ベリヤは独裁者スターリンを取り巻く狭く閉鎖的な側近グループの一員であった。

モスクワのコムソモーリスカヤ・プラウダ紙に掲載されたベリヤの日記(ただし真贋はまだ確定していない)は、第二次世界大戦に関する興味深い逸話なども明らかにしている。

例えばベリヤは、1942年8月に英国首相ウィンストン・チャーチルがモスクワを訪問した際の出来事を語っている。ベリヤは、チャーチルの同情を勝ち取るために酔わせてしまえばよいとスターリンに助言したことを誇らしげに記している。それは見事に功を奏した。首相はウォッカで完全に酔いつぶれ、自分がなぜモスクワに来たのかさえ分からなくなったという。

チャーチルが去った後、ベリヤは満足げにこう書き留めた。「敵の弱点を事前に知っておくのは良いことだ」。スターリンの死後まもなく、ベリヤは逮捕され、死刑を宣告された。

ベリヤの日記が本物かどうかについては、さらなる調査が必要である。もし本物であれば、旧ソ連の権力中枢という今なお閉ざされた世界がどのようなものだったのか、貴重な洞察を与えてくれるだろう。