ピンドスの戦火のさなか、静かな海を渡った小舟
1940年11月、ギリシャ・イタリア戦争開始からまもない頃、歴史の表舞台にはほとんど現れない出来事が起こりました。ピンドス山岳地帯での戦闘が激化していた11月17日の夜、少数の「コマンド部隊」がエーゲ海東部の小島アガトニシに上陸したのです。この島はドデカネス諸島の他の島々と同じく、1912年以来イタリアの占領下に置かれていました。
作戦の中心人物――カルパトス出身の医師ヴェルギス
この作戦を発案し、自ら資金を投じたのが、カルパトス島出身の医師ヴァッソス・ヴェルギス(Vassos Vergis)です。30年近くもの間、ほとんど支援を受けられないままイタリア支配に置かれてきたドデカネス諸島の解放――その熱い思いが、彼を危険な決断へと駆り立てました。
11月17日の夕刻、ヴェルギスは18人の「義勇兵コマンド」とともに隣接するサモス島からボートで出航し、翌日の夜明けにアガトニシ島へ到着しました。部隊の構成員は主にサモス島とカルパトス島の住民でした。
短い戦闘で島を制圧
当時のアガトニシ島には憲兵隊の駐在所があり、7人のカラビニエリ(イタリア国家憲兵)と、10〜15人規模のコマンド部隊が駐屯していました。しかし、思いがけない夜間襲撃により、彼らは完全に不意を突かれることになります。
ヴェルギスの部隊は短時間の戦闘の末に島全体を制圧し、イタリア兵を全員捕虜にしました(この戦闘でイタリア兵2名が死亡)。興味深いことに、流暢なイタリア語を操れたヴェルギス本人が、無線を使って島のイタリア側に襲撃を通知していたという記録や証言も残っています。
タイム誌にも掲載された快挙
この出来事は当時のアテネの新聞各紙で大きく報道されたほか、アメリカの週刊誌TIMEも1940年12月2日号で、ひときわ称賛に満ちた記事として取り上げました。
さらに、アテネの新聞「アクロポリス」は1940年11月19日付紙面で次のように伝えています。
「自由なギリシャに生き、働く一人のギリシャ人、すなわちドデカネス諸島出身者が、11月17日から18日にかけての夜、同胞たちを率いてギリシャの湾からガソリン船で出航し、ドデカネス諸島の一島へ上陸した。この一行はイタリア憲兵カラビニエリの哨所を急襲し、所長とカラビニエリ3名を武装解除のうえ捕虜とした。続いて同島の海軍哨所に対しても攻撃が加えられ、先任伍長を含む3名が死亡した。襲撃者たちは捕虜4名とその武器を携え、出航元の入江へと全員無事に帰還した。」
トルコ国旗を掲げての撤退と、イタリア軍の報復爆撃
コマンド部隊のボートは、イタリア軍機に発見されるのを避けるためトルコ国旗を掲げ、サモス島へと退避しました。一方のイタリア側はアガトニシ島を爆撃。事態の全貌を把握すると、今度はサモス島のヴァティ地区をも爆撃しています。
疑念から賛辞へ――メタクサス政権の対応
当初、ヴェルギスの行動はギリシャの政治・軍の指導部から疑念と慎重論をもって受け止められていました。ところが国民の間でこの快挙への評価が高まるにつれ、メタクサス首相は態度を一変させます。ヴェルギスとその同志たちをアテネに招き、「グレート・ブリテン・ホテル」で催された式典において表彰したのです。しかも、医師である彼にギリシャ陸軍少佐の階級が授けられました。
ドデカネス解放に捧げた94年の生涯
当時60歳だった外科医ヴァッソス・ヴェルギスは、アテネでクリニックを開業していました。上陸作戦の後、イタリア当局が彼を追及し始めたため、ギリシャ国外へ脱出します。ヴェルギスはドデカネス諸島解放の熱烈な支持者であり、アメリカや南アフリカでも活動を展開していました。
時を遡ること28年前の1912年、ヴェルギスは義勇兵組織「ガリバルディン」第5部隊に参加し、イオアニナ近郊のドリスコにおけるトルコ軍との戦闘で手に重傷を負っていました。ドデカネス諸島の解放後はギリシャへ戻り、アテネで余生を送り、94歳でこの世を去りました。