歴史物語

ナゴルノ・カラバフ紛争:アルメニアとアゼルバイジャンの対立で知っておくべき5つのこと

ナゴルノ・カラバフ地域で9月27日に発生した致命的な武力衝突を受け、アルメニアとアゼルバイジャン間の緊張が一気に高まっています。国際社会は強い懸念を表明しており、両国間の全面戦争への懸念が広がっています。

ナゴルノ・カラバフは、アゼルバイジャンから分離独立した地域で、主にアルメニア人が居住し、アルメニアの支援を受けています。国際的にはアゼルバイジャン領と認められているものの、地域の大部分はアルツァフ共和国(2017年2月まではナゴルノ・カラバフ共和国)の支配下にあります。同共和国はアルメニア系住民が多数を占める、事実上の独立国家です。

ナゴルノ・カラバフをめぐる最近の戦闘を受けて、この係争地域について知っておくべき5つのポイントを解説します。

1. 正確にはどこにあるのか

ナゴルノ・カラバフは南コーカサスに位置する地域で、小コーカサス山脈の南東部に広がっています。地域は主に山地と森林で構成され、面積約4,400平方キロメートルの旧ナゴルノ・カラバフ自治州の行政境界線とほぼ一致しています。北端から西側、さらに南部の山岳地帯にかけて高い尾根が連なり、起伏に富んだ地形が特徴です。

現在のナゴルノ・カラバフ地域は、クラ川とアラス川の間に位置する歴史的地域「カラバフ」の一部です。景観は、平原が広がるクラ川流域のステップから、オークやブナの密林へと変化していきます。また、地域には温泉が点在し、亜鉛、石炭、鉛、金、大理石、石灰岩など、鉱物資源にも恵まれています。

ナゴルノ・カラバフ紛争:アルメニアとアゼルバイジャンの対立で知っておくべき5つのこと

2. 歴史的ルーツ

ナゴルノ・カラバフは、この二つの川の間に暮らしていたことから現代の考古学者たちが「クラ=アラクセス文化」と呼ぶ人々の領域に含まれていました。古代の人口は、さまざまな先住民集団と、主に非インド・ヨーロッパ語族の移動部族で構成されていたと考えられています。

中世初期にはナゴルノ・カラバフでアルメニア文明が栄えましたが、7世紀半ば頃にイスラム教徒のアラブ軍がこの地域を征服しました。その後はカリフの承認を得た現地の支配者たちによる統治が続きます。1805年にはカラバフがロシア帝国の保護領となり、露ペルシャ戦争(1804〜1813年)の結果、ペルシャは正式にカラバフをロシア帝国へ割譲しました。

現在の紛争の根源は、スターリンがザカフカース(南コーカサス)編入時に下した決定にあります。1917年のロシア革命後、カラバフはザカフカース民主連邦共和国の一部となりましたが、同連邦はほどなくアルメニア、アゼルバイジャン、グルジア(ジョージア)の各共和国へ分裂しました。続く2年間(1918〜1920年)、カラバフを含む複数の領土をめぐってアルメニアとアゼルバイジャンの間で短い戦争が繰り広げられました。1918年7月、最初のナゴルノ・カラバフ・アルメニア人会議は地域の自治を宣言し、国民評議会と政府を設立しています。

第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北すると、イギリス軍がカラバフを占領しました。1920年2月、カラバフ国民評議会はアゼルバイジャンの管轄下に入ることに同意しますが、アルメニア人はこの合意を受け入れず、ゲリラ戦を継続しました。この合意自体も、アルメニアとの統合を宣言した第9回カラバフ会議によって間もなく無効とされます。

1920年8月10日、アルメニアはボリシェヴィキとの暫定協定に調印し、最終的な解決が図られるまでの同勢力による領土の一時占領に同意しました。ソビエト連邦が地域を確固として掌握すると、紛争は数十年間の凍結状態に入ります。しかし、1980年代後半から1990年代初頭にかけてソ連の解体が始まると、ナゴルノ・カラバフ問題が再浮上しました。アゼルバイジャン政府による地域の「アゼルバイジャン化」を非難するアルメニア系住民の多数派は、アルメニア政府の思想的・物質的支援を受けて、地域の自治を求める運動を開始します。1987年8月には、アルメニアとの統合を求める数万の署名を添えた請願書がモスクワへ送られました。

3. 戦争と分離独立

係争地域ナゴルノ・カラバフをめぐるアルメニアとアゼルバイジャンの領土・民族紛争の根源は20世紀初頭にさかのぼりますが、現在の紛争は1988年に始まり、1990年代前半に全面戦争へと拡大しました。1988年2月13日、アルメニア人は首都ステパナケルトでアルメニア共和国との統一を求めるデモを開始し、6日後にはエレバンで大規模なデモ行進が行われました。

1988年2月22日には、大勢のアゼルバイジャン人がアグダムからアスケラン町のアルメニア人居住区へ向けて行進しました。各国の少数派住民に対する暴力が始まると、大量の難民がアルメニアとアゼルバイジャンの双方から家を追われることになります。そして1991年12月10日、地元アゼルバイジャン人がボイコットした住民投票で、ナゴルノ・カラバフのアルメニア人は独立国家の創設を承認。アゼルバイジャンとナゴルノ・カラバフの間で全面戦争が勃発し、後者はアルメニアからの支援を受けました。

ナゴルノ・カラバフ紛争:アルメニアとアゼルバイジャンの対立で知っておくべき5つのこと

4. ロシア仲介の「違法な」停戦

1994年の終戦までに、アルメニア側はシャウミャン地域を除くナゴルノ・カラバフ全域と、周辺のアゼルバイジャン領の大部分を掌握しました。特に重要なのが、ナゴルノ・カラバフとアルメニア本土を結ぶ山岳回廊「ラチン回廊」です。1994年5月、ロシア仲介による停戦協定が調印されましたが、OSCEミンスク・グループの仲介によるアルメニアとアゼルバイジャンの和平交渉は、平和条約の締結には至りませんでした。

この結果、ナゴルノ・カラバフ地域は法的な空白状態に置かれています。ナゴルノ・カラバフ共和国は事実上独立しているものの国際的に承認されておらず、アルメニア軍は現在、同地域外のアゼルバイジャン領の約9%を支配し続けています。紛争の結果、23万人のアルメニア人がアゼルバイジャンから、80万人のアゼルバイジャン人がアルメニアから避難を余儀なくされました。

停戦にもかかわらず、武力衝突による死者は絶えませんでした。2005年1月25日、欧州評議会議員会議(PACE)は決議1416を採択し、アゼルバイジャン人に対する民族浄化を非難しています。1994年の停戦後に形成された実効支配ラインは、今日まで大きく変わっていません。

5. 現在の状況

今日、アルツァフ共和国は事実上の独立国家として存在しています。アルメニア共和国と緊密な関係を保ち、同じ通貨「ドラム」を使用しています。OSCEミンスク・グループの枠組みで交渉が進められていることを背景に、アルメニア政府は両国の統合を見送るよう、国際的な圧力を繰り返し受けてきました。

ナゴルノ・カラバフ紛争:アルメニアとアゼルバイジャンの対立で知っておくべき5つのこと

仲介プロセスは現在停滞しており、フランス・ランブイエで行われた直近の交渉でも合意には至りませんでした。アゼルバイジャンは、ナゴルノ・カラバフを除くすべての係争地域からのアルメニア軍の撤退と、すべての避難民の帰還を正式に要求しています。

一方のアルメニアは、ナゴルノ・カラバフはアゼルバイジャンに属さないと主張し、地域住民の民族自決の原則を支持する立場を取っています。

2008年、アゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領は「ナゴルノ・カラバフが独立することは決してない。我々の立場は国際的な仲介者によって支持されており、アルメニアは現実を受け入れなければならない」と宣言しました。同年3月14日、国連総会は賛成39、反対7、棄権100という採決で、アゼルバイジャンの領土保全を確認し、同国の国際的に承認された国境への支持を表明するとともに、占領地からの全アルメニア軍の即時撤退を求める、拘束力のない決議を採択しています。