
史上最悪と評された少年皇帝、ヘリオガバルス
ヘリオガバルス(エラガバルス)は、まるで憎まれるために生きていたかのような皇帝だった。その最期は実に凄惨なものであり、まだ非常に幼い少年だったという事実を思えば、いっそう痛ましくさえ感じられる。
ヘリオガバルスは、長いローマ史の中でも最悪の皇帝の一人として記憶されている。シリア・エメサの太陽神エル=ガバルの神官出身であった彼は、わずか14歳で帝位に就いた。しかし以後4年間にわたり、目に付く者すべてに対して、悪行・暴力・奇行の限りを恥ずべくも振るい続け、それが災いして18歳という若さで無残にも殺害されることになったのである。
実際、短い治世の間に彼はあらゆる種類の残虐行為に関与した。その結果、ローマ市民たちは、到底看過できない統治者たちに耐えてきた経験を持つ人々でありながら、彼だけはどうしても許すことができなかった。そして民衆の熱狂的な歓呼の中で、冷酷にも彼は排除されたのだ。年端もいかない年齢への微かな憐れみすら示されることはなく、母ユリア・ソアエミアスに対しても運命は同じだった。彼女は愛する息子とともに命を奪われたのである。
歴史家カシアス・ディオが記録した悲劇的な結末

上の画像:ヘリオガバルスの母、ユリア・ソアエミアス
当時の出来事を詳細に記録した歴史家カシアス・ディオ(ディオ・カッシウス)は、母子の死について、簡潔ながらも悲痛な筆致でこう綴っている。
「彼は逃亡を図り、厠(かわや)の隠し場所へたどり着けば命拾いできたはずだった。だが発見され、18歳で殺された。
母親は彼を抱き締め、固く離さずにいたため、息子とともに死んだ。二人の首は胴体から切り離され、裸に剥かれた遺体はまず市中を引き回された。その後、母親の遺体はそこかしこに投げ捨てられ、彼自身の遺体はテヴェレ川へと投げ込まれた」
この記録が示すように、ヘリオガバルスの死は単なる政変ではなく、ローマ市民の怒りが爆発した瞬間であった。プラエトリアニ(近衛兵)の手によって殺害された少年皇帝の遺体が市中を引き回され、河へ流されたという扱いは、皇帝への最大の侮辱を意味していた。こうして222年、わずか4年の暴政に幕が下ろされたのである。