ブリンディジのタンクレーディの泉(フォンターナ・グランデ)
本記事は、イタリア南部プッリャ州の都市ブリンディジの中世史のみを専門に扱うサイト brindisimedievale.blogspot.it の創設者であり編集者であるピエルルイージ・パーパ(Pierluigi Papa)氏による寄稿です。
修復前のフォンターナ・タンクレーディ
ブリンディジ最古の泉
タンクレーディの泉は別名「フォンターナ・グランデ(大噴水)」とも呼ばれ、ブリンディジに現存する噴水の中で最も古いものです。その起源は古代ローマ時代、当時ブルンディシウム(Brundisium)と呼ばれたこの街にまでさかのぼります。現在のサン・ヴィート通りの県道沿い、ミンヌータ地区とカザーレ地区の間に位置し、かつてここはアッピア街道¹の一部でした。
1192年、王太子の婚礼を記念した再建
1192年8月、ブリンディジ大聖堂²において、シチリア王タンクレーディ・ダルタヴィッラ³の王子ルッジェーロ⁴と、コンスタンティノープル皇帝(バシレウス)イサキオス二世⁶の皇女イレーネー・アンゲロス⁵との結婚式が盛大に挙行されました。父王タンクレーディはこの慶事を記念するため、ローマ時代から存在していた泉を改めて整備させ、次のようなラテン語の碑文を刻ませました(今日では判読不能となっています)。
“ANNO DOMINICAE INCARNATIONIS
MILLESIMO CENTESIMO NONAGESIMO
SECVNDO REGNANTE DOMINO NOSTRO TANCREDO
INVICTISSIMO REGE ANNO TERTIO
ET FELICITER REGNANTE DOMINO NOSTRO
GLORIOSISSIMO REGE ROGERIO FILIO EIUS
ANNO PRIMA MENSE AUGUSTI INDICTIONIS DECIMAE HOC OPUS FACTUM EST AD HONOREM EORUNDEM REGUM”⁷
中世における泉の役割
中世には、この泉の水は聖地巡礼のために街を訪れる旅人の家畜に飲ませるだけでなく、周辺の庭園の灌漑にも、そして市民の生活用水としても使われていました。ブリンディジの郷土史家パスクァーレ・カマッサ⁸は著書『ブリンディジ案内』の中で、湧き出る水の質について「水の中でも最良の水」と評しています⁹。
1540年の修復と三つの紋章
1540年、当時のオトラント地方総督フェッランテ・ロッフレード¹⁰は、街道の一部を改修するとともに泉を拡張し、中央壁面に三つの紋章を掲げました。中央には市の紋章¹¹、左側にはロッフレード自身の紋章¹²、右側には神聖ローマ皇帝カール五世¹⁴の紋章¹³です。総督はこの事業を記念して、二つ目のラテン語碑文も残しました。長い旅の後に立ち止まり、渇きを癒すよう旅人へ呼びかける内容です。
“AD VIATORES
APPIA APPIO FONS TANCREDO REGE AEDITA
BOTH FERDINANDO LOFFREDO HEROE INSTAURATA
QUARE STA BIBE ET PROPERA ET TRIA HAEC COMMODA HIS TRIBUS PROCERIBUS ACCEPTA REPORT
MAJOR IOANNE MARIA STEFANIO EX PUBLICIS
BRUNDUSINORUM IMPENSIS ANNO D. MDIL”¹⁵
度重なる修復の歩み
1828年、泉は完全な荒廃状態にあり、崩壊寸前にまで達していたため、二度目の大規模な修復が実施されました。さらに近年では、記念碑を保存するための修復工事が1998~1999年および2011年に行われました。ブリンディジ市は後者の際、記念碑の改修に加え、周辺地域の再開発として庭園の整備、ベンチの設置、新しい照明システムの導入に資金を充てました。こうして泉は2013年2月21日、コジモ・コンサーレス市長¹⁶の政務下で、政治・宗教関係者列席のもと式典を挙げて市民へ再び開放されたのです。
泉の建築構造
泉の構造は長方形の壁面を主体とし、左右にアラビア風のドーム¹⁷を戴く尖頭アーチ型の小祠(エディクラ)¹⁸が二つ配されています。両者は水を貯える集水池で結ばれ、小祠にも見られる仮面(マスケロン)の口から水が流れ出す仕組みです。
主な参考文献
- Bascapè G., Del Piazzo M., Insegne e simboli. Araldica pubblica e privata medievale e moderna, Roma, Ministero per i Beni Culturali ed Ambientali, 2009
- Camassa P., Guida di Brindisi, Brindisi, Edizione Commerciale, 1910
- Del Sordo A., Ritratti brindisini, Bari, 1983
- De Vecchi P., Cerchiari E., I tempi dell'arte, Milano, Bompiani, 1991
- Houben H., Tancredi. Conte di Lecce, re di Sicilia, Galatina, Congedo Editore, 2004
- Jurlaro R., Epigrafi medievali di Brindisi, Studi Salentini, 1968
- Maddalena G., Tarantino F.P., Delle insegne ancora visibili nella città di Brindisi, Brindisi, Ed. Alfeo, 1989
- Papadia V., Brindisi: dal paganesimo al cristianesimo, Latiano, Neografica, 2002
- Riccardo di San Germano, La Cronaca, Cassino, 1999
- Ribezzi Petrosillo V., Guida di Brindisi, Galatina, Congedo Editore, 1993
- Sirago V.A., Brindisi in età augustea, "Brundisii res", 1979
- Vitolo G., Medioevo. I caratteri originali di un'età di transizione, Firenze, Sansoni, 2000
注釈
¹ アッピア街道:全長360ローママイルのローマ街道。紀元前312年、執政官アッピウス・クラウディウス・カエクス(紀元前350~271年)のもとで工事が始まりました。アリツィア(現アルデーア)、フォルム・アップイイ、アンクスル(現テラチーナ)、フォンディ、イトリ、フォルミア、ミントゥルナエ(現ミントゥルノ)、シヌエッサ(現モンドラゴーネ)、カプア(現サンタ・マリア・カプア・ヴェーテレ)などを経てカゼルタ県のアルパイア峡谷を抜け、イスクロ川の橋を渡ってカウディウム(現モンテサルキオ)、ベネヴェントゥム(現ベネヴェント)、ウェヌシア(現ヴェノーザ)、グラウィナ・ディ・プッリャ、ターラントを経由し、ウッラ(現オーリア)を経て終点のブルンディシウムへ至りました。良港を擁するこの街はローマにとって極めて重要でした。
² 結婚式の時期について:年代記作者リッカルド・ディ・サン・ジェルマーノ(1170頃~1243)は『年代記』の中で、婚礼は1191年に行われたとしています。「タンクレーディ王はシチリアからプッリャへ移り、テルモリで会議を開き、アブルッツォへ赴いてリナルド伯を包囲した。さらにブリンディジへ向かい、コンスタンティノープル皇帝イサキオスの娘ウラニアを次男ルッジェーロに娶わせ、婚礼を厳かに執り行い、ここで王子を王として戴冠させた」と記しています。
³ タンクレーディ・ダルタヴィッラ:〈タンクレーディ・ディ・レッチェ〉とも呼ばれます(レッチェ1138年頃~1194年2月20日没)。ノルマン系のレッチェ伯として、現在のオストゥーニ、オーリア、ガッリーポリ、オトラント、ナルドなど広範な領域を治めました。1161年には貴族マッテーオ・ボネッロが主導したパレルモの反乱に参加して国王グリエルモ一世(悪人王)を幽閉しましたが、反乱は失敗。コンスタンティノープルへの亡命を経て許されます。1174年には艦隊をエジプトのアレクサンドリアへ送り、ファーティマ朝を支援してサラーフッディーン(サラディン)に対抗しましたが敗退。1185年にはドゥラスへ遠征して東ローマ帝国を攻撃しましたが、バシレウス・アレクシオス一世コムネノスに敗れています。1186年にはキプロスのイサキオス・コムネノスの反乱を支援し、この功績によりブリンディジ出身の提督マルガリートが王国宰相・海軍最高司令官に任じられました。1189年にシチリア王グリエルモ二世(善人王)が死去すると、後継問題が浮上します。法定相続人は甥のヘンヒ四世(ホーエンシュタウフェン朝)と結婚したコスタンツァ・ダルタヴィッラでしたが、ノルマン騎士たちはドイツ勢力の介入を嫌いました。折しも皇帝フリードリヒ・バルバロッサは第三回十字軍(1189~1192)で聖地に遠征中で、コスタンツァ夫妻はドイツに留まらざるを得ず、この間隙を縫ってタンクレーディは1189年11月、教皇クレメンス三世の承認を得てパレルモでシチリア王として即位しました。1190年には悪天候のためメッシーナ港に足止めされたイングランド王リチャード一世(獅子心王)とフランス王フィリップ二世が対立し、姉ジョヴァンナの寡婦財産問題で激昂したリチャードがシチリア側の都市を略奪する事件も起きています。その後ヘンヒ四世はピサ艦隊の助けを借りてシチリア王国を攻撃しましたがノルマン軍に敗れ、皇后コスタンツァはサレルノで捕虜となりました。タンクレーディは原因不明の病により1194年2月20日に没し、幼少の子グリエルモ三世が母シビッラ・ディ・アクェーラの摂政のもと王位を継ぎましたが、同年ヘンヒ四世の謀計によって王朝は滅亡します。
⁴ ルッジェーロ三世:シチリアの共同王(1175年頃~パレルモ、1193年12月没)。タンクレーディと王妃シビッラの長男。1189年にプッリャ公に叙され、19歳で早世しました。
⁵ イレーネー・アンゲロス:ギリシャ語では Ειρήνη(コンスタンティノープル1181年~ホーエンシュタウフェン城1208年8月27日没)。皇帝イサキオス二世と皇女イレーネーの娘として生まれ、シチリア公子ルッジェーロとの結婚によりシチリア王国の妃となります。王国がシュヴァーベン家の手に落ちると捕虜となり、1197年に皇帝フィリップ(シュヴァーベン公、1177年~1208年6月21日没)と再婚。1208年、末子の出産に関連して亡くなったと考えられています。
⁶ イサキオス二世アンゲロス:ギリシャ語名「Isaakios II Angelos」(1156年9月~コンスタンティノープル1204年2月8日没)。アンドニコス・アンゲロスとエウフロシネ・カスタモニティッサの子。1185年に民衆蜂起で叔父が殺害された後、皇帝に即位しました。第三回十字軍ではバルバロッサに対抗してサラディンと同盟。1195年、弟アレクシオス三世に帝位を奪われ、盲目にされて投獄されましたが、1203年に子アレクシオス四世がヴェネツィアの支援を受けて復位させます。しかしその翌年、父子はアレクシオス・ドゥーカス(ムルズフロス)率いる民衆蜂起の中で殺害されました。
⁷ 碑文について:ロザリオ・ジュルラーロ(1930年~)が、ブリンディジの「アンニーバレ・デ・レオ」図書館所蔵のジャンバッティスタ・カシミーロ写本(ms. D/8, f.14)から転写したもので、原碑の字形と省略形が再現されています。ラテン語では U の代わりに V を用いるため、「正しい読み」は次の通りです:「Anno dominicae incarnationis millesimo centesimo nonagesimo secundo regnante domino nostro Tancredo invictissimo rege anno tertio et feliciter regnante domino nostro gloriosissimo rege Rogerio filio eius anno prima mense augusti indictionis decimae hoc opus factum est ad honorem eorundem regum」(我らの主タンクレーディ不敗の王の治世三年、その子栄光ある王ルッジェーロの治世元年八月の第十インディクティオの年に、両王の栄誉を称えてこの業は成された)。
⁸ パスクァーレ・カマッサ:ブリンディジ1858年12月24日~メザーニェ1941年12月10日。ブリンディジの人々から「パーパ・パスカリヌ」の愛称で親しまれた郷土史家です。1890年には考古学者ジョヴァンニ・タランティーニの後を継いで市立博物館(現在の「フランチェスコ・リベッツォ」県立博物館)を主宰し、1921年には「歴史と芸術を愛する会」を創設しました。1941年12月7日の市への空襲で負傷し、自宅を失ってメザーニェの病院に搬送され、同月10日に亡くなりました。
⁹ カマッサ『ブリンディジ案内』(1910年刊)より。
¹⁰ フェッランテ・ロッフレード:当時ナポリ王国に属したオトラント地方の総督。管轄区域は現在のブリンディジ県(ファザーノとチステルニーノを除く)、レッチェ県、およびターラント県とマテーラ県の一部で、1663年まで存続しました。
¹¹ 市の紋章:鹿の頭部が用いられ、現在も使われています。古代の先住民メサピ人はこの街を Brunda(鹿の頭)と呼びました。地図上で見ると港の形状がまさに動物の頭に似ているためです。紋章に描かれた角は港、特に内港の二つの枝分かれ——西側の「セノ・ディ・ポネンテ」と東側の「セノ・ディ・レヴァンテ」——を象徴しています。ロッフレードの紋章はサムニウム型(近代フランス型)と呼ばれる矩形の盾形で、下部の角が半円弧で丸められています。白い石材に彫られた紋章は磨耗が激しく、盾身に欠損や不規則性が見られます。
¹²~¹³ カール五世の紋章:皇帝カール五世は城塞や門(ポルタ・メザーニェ、ポルタ・レッチェなど)に自らの紋章を刻ませました。そこにはスペイン王国、神聖ローマ帝国、ナポリ王国、ブルゴーニュ公国という彼のすべての所領が表現されています。
¹⁴ カール五世:ハプスブルク家のカール(ヘント1500年2月24日~クアコス・デ・ユステ1558年9月21日)。スペイン王カルロス一世、神聖ローマ皇帝カール五世、ナポリ王カルロ四世、ブルゴーニュ公シャルル二世として知られます。美公フィリップと「狂気の」フアナ(アラゴンのヨハンナ)の子。1506年にわずか6歳でネーデルラント、ルクセンブルク、アルトワ、フランシュ=コンテを相続し、1515年には母方のカスティリャ、翌1516年には母方祖父フェルナンド二世(カトリック王)の死によりアラゴン、ナポリ王国、さらにアメリカの植民地をも手に入れました。1519年には父方祖父マクシミリアン一世の死を受けて神聖ローマ皇帝に選出され、1520年10月23日アーヘン大聖堂で戴冠します。以後、フランスのフランソワ一世やイングランドのヘンリー八世に恐れられる欧州最強の君主となりました。1521年にはイタリアに南下してミラノ公国を占領し、1525年のパヴィアの戦いでフランス軍を破ります。1529年のカンブレー条約でフランスのイタリアへの要求に終止符を打ち、1530年にはボロニアでメディチ家をフィレンツェに復帰させ、教皇クレメンス七世によりイタリア王として戴冠されました。国内では宗教問題にも直面しました。1517年、ドイツのアウグスチノ会修道士マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95ヶ条の提題を張り出したことで宗教改革が始動し、皇帝は1521年のヴォルムス勅令でルター派を破門。1526年と1529年のシュパイアーの帝国議会、1546~47年のシュマルカルデン戦争を経て、1555年のアウクスブルク和議でドイツ諸侯の信仰選択の権利を認めることになりました。対外面ではオスマン帝国のスルタン・スレイマン大帝が1529年にウィーンへ迫り、その艦隊がスペインや南イタリアの沿岸を攻撃したため、1535年にチュニスを攻略する一方、アルジェ遠征では暴風雨に阻まれました。晩年は健康を害し、1555~56年に譲位してユステ修道院に隠遁。オーストリア帝冠は弟フェルディナント一世に、スペイン王位と全所領は子フィリップ二世に譲り、1558年に亡くなりました。
¹⁵ 二つ目の碑文の原文:「Ad viatores Appia Appio fons Tancredo rege aedita both Ferdinando Loffredo heroe instavrata qvare sta bibe et propera et tria haec commoda his tribvs proceribvs accepta report mayor Ioanne Maria Stefanio ex pvbblicis brvndvsinorv. MDIL」(旅人よ、アッピオがアッピア街道に、タンクレーディ王がこの泉を建て、英雄フェルディナンド・ロッフレードがこれを修復した。故に立ち止まり、飲み、急げ。この三つの恩恵を携えて去るがよい。市長ジョヴァンニ・マリア・ステファニオのとき、ブリンディジ市民の公費により、MDIL〔1540〕年)。
¹⁶ コジモ・コンサーレス:1959年5月13日ブリンディジ生まれ。2012年5月7日にブリンディジ市長に就任しました。
¹⁷ エディクラ(小祠):元来、神像などを納める小神殿状の建築要素です。柱廊、窓、その他の開口部、あるいは壁面の壁龕(ニッチ¹⁹)として造られ、二本の柱または柱脚が三角形または曲線状の破風(ペディメント)を支える形式を取ります。
¹⁸ アーチ:曲線部材が上方構造物の重量を橋脚に伝達する重要な建築要素です。アーチが載かる部分を「瓦石(タッソ)」と呼び、その間隔を「弦」といいます。アーチはモルタルやコンクリートで固定された石材(コンチ)から成り、頂部の楔形ブロックは「要石(キーストーン)」。弦からの要石の高さは「矢高」、外面を「背面(エクストラドス)」、内面下部を「腹面」と呼びます。アーチは曲線の勾配によって分類され、尖頭アーチ、半円アーチ、平アーチ、扁円アーチ、楕円アーチ、馬蹄形(ムーア)アーチ、チューダー(英国式)アーチ、フライング・バットレス、屈曲アーチ、三葉飾りアーチなどがあります。この泉の場合は尖頭アーチ、すなわちオージー(ogiva)様式で、中心を異にする二つの円弧が一点で交わり尖りを形成する構造です。
¹⁹ ニッチ(壁龕):壁の厚みの中に設けられた窪みで、平面は半円形、矩形、多角形があり、通常は彫像を納めるために用いられ、上部は球体の四分の一で閉じられます。