
エヴァリスト・ガロアの肖像
数学嫌いの筆者が出会った一人の天才
正直に告白すると、数学は筆者が苦手とする分野であり、この学問そのものや、歴史上の著名な数学者たちに対して特別な関心を持ってきたことはなかった。ところが先日、古い雑誌『Storica』(2014年11月号)をめくっていた際、それまでまったく知らなかった人物――エヴァリスト・ガロア(Évariste Galois)――の姿に出会ったのである。
この若き数学者は、過去数百年のヨーロッパにおいて悲哀な「流行」とも言える決闘の犠牲となった青年だった。好奇心に駆られて詳しく調べてみると、文化的にも科学的にも、そして人間的にも、実に興味深い人物であることがわかった。
19歳にして代数学の歴史を変えた神童
ガロアは1811年10月25日、フランスのブルク・ラ・レーヌに生まれた。幼い頃から並外れた聡明さを示し、とりわけ数学の分野で頭角を現した。しかし彼の人生は決して平坦なものではなく、志望したエコール・ポリテクニーク(理工科学校)の受験には二度失敗し、科学アカデミーに提出した論文も紛失や不採用に遭うなど、不運が重なり続けた。
それでも彼は、19歳前後にしてすでに抽象代数学における最重要理論の一つを完成させている。方程式の解の構造を「群」という画期的な概念で捉えたこの理論は、今日「ガロア理論」と呼ばれ、現代数学の礎の一つとなっている。同時代の人々から既に大きな期待を寄せられていた、まさに輝かしい未来の約束された青年だった。
1832年5月――謎に包まれた最期
そんなガロアの夢は、当時としては決して珍しい出来事ではなかった一件によって打ち砕かれる。想いを寄せるようになった女性の名誉を守るため、彼は1832年5月30日の早朝、決闘に臨んだ。銃弾を受けて重傷を負った彼は、翌日の5月31日に息を引き取った。わずか20歳、満21歳目前での死だった。
これが公式に語られる経緯と理由である。しかし異説も存在する。共和主義的な政治活動を行っていたガロアの死を、王政側の秘密警察による政治的暗殺だとする見方だ。決闘前夜、彼が友人に宛てて自らの数学的発見を書き綴った有名な手紙の存在も相まって、事件の全貌は今なお謎に包まれている。
眠る場所さえ定かではない墓
ガロアの早すぎる死が一部謎のままであるように、彼の墓もまた謎めいている。ゆかりの地ブルク・ラ・レーヌの墓地には彼を顕彰する記念碑(空棺碑)が建てられているものの、若き数学者の遺体が実際にどこに眠るのかはわかっていない。パリのモンパルナス墓地の合葬墓に埋葬されたとされるが、その正確な位置は現在に至るまで特定されていないのである。
さらに知りたい方へ
it.wikipedia.org、biografieonline.it、histoires.itなどの資料を参照されたい。