1972年1月30日、「血の日曜日」に公民権行進が行われた理由
1972年1月30日は、北アイルランド紛争(トラブルズ)において「血の日曜日(Bloody Sunday)」と呼ばれる悲劇的な日として歴史に刻まれています。この日、北アイルランド第2の都市デリー(ロンドンデリー)で、北アイルランド公民権協会(NICRA)が主催する大規模な公民権行進が実施されました。
行進の目的:拘禁制度への抗議
この行進が計画された最大の理由は、1971年8月にイギリス政府が導入した「拘禁(internment)」制度への抗議でした。拘禁とは、裁判なしで人物を無期限に収容できる措置であり、主にカトリック系住民(ナショナリスト)を標的としたものでした。市民たちは「公民権の平等」「差別の撤廃」「拘禁制度の廃止」を掲げ、平和的に声を上げようとしたのです。
禁止された行進と英軍の発砲
当時、北アイルランドでは行進や集会が禁止されていましたが、それでも数千人の市民がボグサイド地区へ向けて行進しました。行進はイギリス陸軍の封鎖線によって阻止され、混乱の中で英陸軍落下傘連隊の兵士たちが発砲。13人の市民がその場で死亡し、負傷者のうち1人が数か月後に亡くなったため、犠牲者は最終的に14人となりました。犠牲者はすべて非武装の民間人で、多くは10代の若者でした。
混同されやすいもう一つの「血の日曜日」—1965年3月7日
「血の日曜日」という呼称は、アメリカの歴史における出来事とも深く関わっています。1965年3月7日、アラバマ州セルマから州都モンゴメリーへ向かう公民権行進(セルマ行進)の最初の試みにおいて、ジョン・ルイスら約600人の行進者がエドマンド・ペタス橋で州警察に襲われ、多数が負傷しました。この日も「血の日曜日」と呼ばれ、同年の投票権法(Voting Rights Act of 1965)成立の大きなきっかけとなりました。
つまり、1972年1月30日の北アイルランドでは実際に公民権行進が行われ、そこで悲劇が起きた一方、アメリカの血の日曜日(1965年3月7日)もまた、公民権行進そのものが暴力にさらされた日だったのです。
マルコムX暗殺との混同に注意
なお、これらの出来事としばしば混同されるのが、公民権運動の重要人物マルコムXの暗殺です。マルコムXは1965年2月21日、ニューヨーク市ワシントンハイツのオーデュボン舞踏場で、自身が設立したアフロアメリカン統一機構(OAAU)の集会で演説を始めた直後、ネーション・オブ・イスラム(NOI)出身とされる3人の男に至近距離から射殺されました。
彼の死は全米に衝撃を与え、ロサンゼルス、ニューヨーク、デトロイト、フィラデルフィア、シカゴ、クリーブランド、ボストン、ハーレム、ワシントンD.C.、アトランタ、バルチモアなど主要都市で怒りの抗議行動や暴動が発生しました。ただし、これはあくまで別の出来事であり、セルマの行進(3月7日)や北アイルランドの血の日曜日(1972年1月30日)とは直接関係ありません。
まとめ
1972年1月30日の血の日曜日に公民権行進が行われたのは、裁判なしの拘禁に反対し、公民権の平等を求める北アイルランド市民の意思を示すためでした。この悲劇はその後数十年にわたり北アイルランド情勢に影を落とし続け、2010年の公式調査(サヴィル報告)では英軍の発砲が不当であると認定され、当時のデヴィッド・キャメロン首相が正式に謝罪しました。「血の日曜日」という言葉が複数の歴史的出来事を指すため、それぞれの時代と場所を正確に区別して理解することが重要です。