植民地時代のアメリカにおいて、かつら(ウィッグ)職人の多くは大都市を拠点として活動していました。かつらを購入できる経済力を持つ富裕層の顧客が都市部に集中していたためです。ボストン、フィラデルフィア、ニューヨークといった商業の中心地では、上流階級の人々が社交の場で身につける高価なかつらへの需要が絶えず、職人たちは安定した収入を得ることができました。
農村部へ足を運んだ「旅のかつら職人」
しかし、すべての職人が都市にとどまっていたわけではありません。小さな町や村、特にかつら職人がほとんどいない田舎の地域を訪れる職人も存在しました。こうした旅回りの職人たちは、地元の酒場や宿屋を臨時の作業場として借り、そこで営業を行いました。
当時は広告媒体が限られていたため、彼らは町の掲示板に張り紙を出したり、口こみで評判を広めたりしながら、地域住民に自分の技術を売り込んでいったと考えられています。
二つの働き方が支えたかつら文化
このように、植民地時代のかつら職人には大きく分けて二つの働き方がありました。ひとつは都市に店を構えて富裕層の常連客に対応するスタイル、もうひとつは需要のある土地を巡り歩く行商人スタイルです。
当時のかつらは社会的地位の象徴でもあり、裁判官や裕福な商人にとって欠かせない身なりでした。都市と農村の双方で職人たちの技術が求められていたことは、かつらが当時の人々の生活に深く根付いていたことを物語っています。