バスティーユ襲撃:革命の幕開け
1789年7月14日、パリの民衆が王政の圧政の象徴とされていた要塞監獄「バスティーユ」を襲撃・占拠しました。当時、バスティーユに収監されていた政治犯はわずか7名でしたが、民衆にとって同牢獄は王権による抑圧の象徴そのものであり、その陥落はフランス革命における象徴的な勝利として広く受け止められました。この出来事を記念する7月14日は、現在もフランスの国慶節(革命記念日)として祝われています。
憲法制定国民議会の設立
実は、聖職者・貴族・平民の三身分の代表からなる「三部会」は、バスティーユ襲撃に先立つ1789年5月、深刻な財政危機への対応を求められたルイ16世によって召集されていました。しかし平民(第三身分)の代表は同年6月、自らを「国民議会」と宣言して王政から独立した議会運営を目指し、7月9日には「憲法制定国民議会」へと改称して、フランス新憲法の起草に着手しました。
8月4日、議会は封建的特権の全面廃止を決議。さらに8月26日には「人間および市民の権利の宣言(人権宣言)」を採択し、自由・平等・人民主権という近代的な原則を打ち出しました。その後、議会は王政を廃止して共和政体を樹立するなど、フランスの政治体制を根本から変革させていきます。
農民反乱と「大恐怖」
地方では、農民たちが領主に対して次々と蜂起し、領主館(シャトー)に火を放ち、土地や権利文書を奪う動きが広がりました。貴族による反革命の噂が各地に流されると、農村部は「大恐怖(ラ・グランド・プール)」と呼ばれる広範なパニックと暴力に包まれました。こうした混乱が、8月4日の封建制度廃止決議を実現させる大きな後押しとなったとされています。
ヴェルサイユ行進
1789年10月、パン不足への不満を抱えたパリの女性たちを中心とした大群衆が、ヴェルサイユ宮殿へ向かって行進しました。彼女たちは国王に対し、首都へ戻って新しい革命政府を受け入れるよう要求しました。国王はこの要求に応じざるを得なくなり、王妃マリー・アントワネットや家族とともに、パリのテュイルリー宮殿へ移住することを余儀なくされます。これにより国王は事実上、革命勢力の監視下に置かれることになりました。
王政の廃止とルイ16世の処刑
1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件により国王への信頼は決定的に失墜し、1792年9月、ついに王政は廃止されてフランス第一共和政が宣言されました。翌1793年1月21日、反逆罪に問われたルイ16世はギロチンによって処刑され、王妃マリー・アントワネットも同年10月に同じ運命をたどります。ここに、長きにわたり続いたフランス王政は完全に終焉を迎えたのです。
バスティーユの陥落は単なる一つの事件ではなく、絶対王政から近代市民社会へと移行する、フランス革命全体の流れの出発点となった出来事だったといえるでしょう。