1635年頃、オランダのテセル島沖で大型船が遭難した。この難破船が偶然発見されたのは1984年のこと。その後、水中考古学者たちによって調査が進められたが、人手不足のため研究は途中で停滞し、出土品は棚に眠ったままになっていた。しかし、ついにその時が来たのだ。
水中考古学者アリス・オーフェルメール(Alice Overmeer)は、この難破船とそこから出土した遺物の調査に取り組んだ。彼女に、水中考古学に関わるようになった経緯と、この難破船研究の成果について話を聞いた。
学生時代からの縁
「ライデン大学で考古学を学んでいた頃、ティース・マールレフェルト(Thijs Maarleveld)先生から水中考古学を教わりました。当時、彼は文化遺産庁(RCE)の前身であるROB-NISAに勤務する、唯一のプロの水中考古学者でした。夏になるとティース先生は学生たちをテセル沖の発掘現場に連れて行ってくれました。現場は『アーンループ・モレンガット』と名付けられ、私も参加しました。『出土品記録係』として、ダイバーたちが引き揚げてくるものをすべて記録していました。その後、できるだけ早くプロのダイビングライセンスを取得し、私が初めて潜った難破船こそがアーンループ・モレンガットだったのです」とアリスは語る。
海洋国家オランダでありながら、水中考古学は考古学の中でも小さな専門分野にとどまっている。必須となる業務用ダイビングライセンスの取得には高額な費用がかかり、作業環境も危険を伴う。さらにオランダには、水中考古学者を養成する専門の教育課程も存在しない。難破船へのダイビングは、長らくレジャーダイバーの趣味の領域だった。アーンループ・モレンガットの発見は、当時の厚生公衆衛生文化省に水中考古学者が任命されるという形で、一定の専門化をもたらした。
アリスは続ける。「この分野に関わる人はごくわずかで、アーンループ・モレンガットは北海における最初の本格的な水中発掘でした。完全な考古学ダイビングチームがROB-NISAに編成されたのは1995年になってからです。それまでは、ティース先生が臨時の専門家、そして主にボランティアや学生、レジャーダイバーの協力を得て何とかやりくりしていました。地元の漁師たちが難破船に遭遇して提供してくれる情報も非常に重要でした。発掘には1985年から1999年までの14年間という長い歳月がかかりました。難破船は水深16メートルにあり、ダイビングチームが水中で作業できる時間は限られていました。北海の気象条件もダイビングには決して理想的ではなく、多くの中断を余儀なくされたのです」
3Dから2Dへ
14年間の発掘では、膨大な数の遺物が引き揚げられた。船体自体もステレオ写真によって船首から船尾まで撮影されており、これを処理すれば3Dモデルが作れるはずだったが、1990年代にはそれだけの余裕がなかった。調査すべき難破船は多すぎる一方、調査資料を総合報告書にまとめる人は少なすぎた。すべての遺物と情報は埃を被ったまま放置されていた。そんな状況を変えたのが、NWO(オランダ科学研究機構)の「オデッセイ(Odyssey)」プログラムだ。このプログラムは、棚上げされたままの考古学研究に助成金を投入し、特別な発見物を広く一般に公開することを目指している。この助成金により、アリスはティース・マールレフェルトら多くの仲間とともに、2012年にアーンループ・モレンガットの研究を再開することができた。
アリスはこう説明する。「助成期間は1年だけだったので、選択を迫られました。3Dモデルの作成は専門知識がなかったため断念し、代わりに2Dの図面を作成しました。さらに、すべての遺物をデジタル化して解説をつけ、誰もがアクセスできるようにすることにしました。ところが、何度もの引っ越しを経て、遺物はまだ箱に入ったままだったんです。開けてみると、予想していた750点ではなく、3000点以上もあることが判明しました。しかも紙の報告書や、何百枚ものスライドや写真まで。途方もない作業でしたが、最後にはなんとか形になりました」
研究から明らかになった驚くべき事実
アリスは語る。「船がどこへ向かっていたのかを知るために、積荷に注目しました。アーンループ・モレンガットの難破船は、まだ完成品に加工されていない工業製品で満杯でした。重量物が大量にあったことから、船はかなり深く水面下に沈んでいたはずです。発見された半製品の例としては、牛の皮革、水銀、錫の塊、鍛鉄、織物用の鉛などがあります。高級織物の梱包自体は腐敗して失われていましたが、検印として使われていた鉛は難破船の中に残っていました」
「その中には、製造年である1635年とライデンの鍵の紋章が刻まれた分銅も含まれていました。付随していた布地はライデン産のもので、その高い価値ゆえに長く在庫として置かれていたとは考えられません。船は1635年かその直後に沈んだと推測されます。この年代は、船材の年輪年代学調査の結果とも一致しました」
この年代測定と積荷の情報をもとに、研究者たちは17世紀の交易路に関する知識に重要な貢献を果たすことができた。船倉の貨物の大部分にとってアムステルダムが集散市場であったことから、船はオランダから出航したと考えられる。では、積荷はどこから運ばれたのか。船には世界各地からの品々が詰め込まれていた。錫はハンブルク経由でチェコから、鉛の塊はポーランドから。織物はライデン、デルフト、そしてフランドルのベルヘンとホントスホーテ産。鍛鉄はスウェーデンまたはドイツから。象の牙はアフリカから、胡椒はアジアから運ばれたのだ。
牛の皮革はスペインか南米産だとみられるが、当時オランダはこれらの地域と交戦状態にあった。DNA調査で確定的な答えが出るはずだったが、残念ながら革に残っていた毛が汚染されすぎていて分析できなかった。また、船には水銀も積まれていた。調査の結果、常温で液体のまま保たれるこの重金属を、鉛製のキャップ付きガラス瓶に入れて輸送していたことがわかった。
「この船が何という船で、どこへ向かっていたのかは、まだ特定できていません」とアリスは言う。「不完全な資料が多い中で、船名を見つけることはできませんでした。アーンループ・モレンガットは300ラスト(積載量単位)の大型船でした。この規模の船のほとんどは、VOC(オランダ東インド会社)やWIC(オランダ西インド会社)の船として大洋を渡り、極東や新大陸へ向かっていました。VOCとWICのアーカイブでは、どの船がいつどこから出航し、どんな積荷を運んでいたかを簡単に調べることができます。しかし、これらのアーカイブから難破船との一致は見つかりませんでした。つまり、東方・西方への航海という可能性はないのです」
バルト海地域は、この船が運んでいた種類の貨物に対する需要があるため、行き先の候補となり得た。しかし、通過する各船の大きさと積荷を関税額決定のために記録していたエーレスンド海峡の関税台帳には、はるかに小型の船しか記録されていなかった。このため、この行き先の可能性も消えた(エーレスンド関税台帳はオンラインで閲覧可能)。
3番目の、そして最も可能性が高い選択肢は、「ストレートファールダー」と呼ばれる船だ。これは英仏海峡を経由してフランスへ航行する船のことである。半製品の積荷は武器の製造にうってつけのものであり、フランスは1635年からスペインとの戦争状態にあった。問題は、それが軍需産業向けの正式な注文だったのか、それとも違法な取引だったのかということだ。研究者たちはまだこの説を実証できておらず、現在もさらなる調査が続けられている。
一般公開される発見物
最終的に研究者たちは、難破船から出土した数千点の遺物をすべてデジタル化し、キャプション付きでオランダ考古学の電子保管庫「EDNA」に登録することに成功した。2013年12月19日以降、この難破船とその積荷について詳しく知りたい人は誰でも、このデータベースにアクセスできる。
アリスは言う。「デジタル化は、他の研究者にとって特に重要です。水中考古学はまだ歴史が浅いため、新しい研究で比較できる調査やデータがほとんどありません。だからこそ、より多くのデータと知識を生み出す新しいプロジェクトは歓迎されます。これまでに行われたのは、いくつかの小規模な予備調査と、2件の大規模発掘だけです。アーンループ・モレンガットのほかに、完全に発掘された難破船はシュールラックSO(Scheurrak SO)だけです」(つまり、目録を作成し、積荷を陸上に搬出したということ。船体自体は今も海底にある)
シュールラックSOは16世紀の船であり、動画の中でティース・マールレフェルトが発掘の様子や船の建造方法について詳しく語っている。
アリスは続ける。「水中発掘が重要であるもう一つの理由は、海洋の歴史を人々に示せることです。全員をボートで海に出して実際に見てもらうのは困難です。引き揚げられた積荷の一部は、現在テセル島の海事・ビーチコーマーズ博物館カープ・スキル(Kaap Skil)で見ることができます。また、2014年4月14日からは、ライデンの国立古代博物館で、アーンループ・モレンガットを含むオデッセイ・プロジェクト全体の回顧展が開催されます」
さらに、オランダの水域から水中考古学者たちが何を引き揚げているのかを見たい人は、レリスタットの国立船舶考古学デポーを訪れることができる。ここでは、難破船から出土した大砲や遺物を見ることができるだけでなく、ローマ時代のカヌーからフレヴォ干拓地の難破船まで、船体の残骸そのものも展示されている。フレヴォラントがまだアイセル湖(旧ズイデル海)だった時代には、多くの船が遭難した。これらの難破船は通常、アーンループ・モレンガットより小型だ。
研究者プロフィール
アリス・オーフェルメール(1977年、ノートドルプ生まれ)は、ライデン大学で北西ヨーロッパの先史・原史学を専攻した。2000年に、シュールラックSO難破船の目録作成に関する論文で卒業。1999年から2005年まで、当時のROB-NISA(現RCE)の考古学ダイビングチームで働いた後、15世紀と16世紀のクリンカー建造(重ね板張り)貨物船7隻に関する博士研究を開始した。
2010年から2012年にかけて、かつての恩師ティース・マールレフェルトらとともに、NWO/オデッセイ・プロジェクト「難破船アーンループ・モレンガット」に取り組んだ。マールレフェルトは現在、デンマークの南デンマーク大学(Syddansk Universitet)の教授である。