アフリカの歴史

ボスニア危機の際に何が起こったのか?紛争の経緯を年表で徹底解説

背景:なぜボスニアで紛争が起きたのか

ボスニア危機(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争)は、ユーゴスラビア解体に伴う一連の紛争(ユーゴスラビア紛争)の中でも最も激しい戦いとなった内戦で、1992年から1995年までの約3年半にわたり続きました。

ボスニア・ヘルツェゴビナには、ボシュニャク人(ムスリム人)、セルビア人、クロアチア人の3つの主要民族が混住していました。1992年の独立宣言をきっかけに、ユーゴスラビアへの残留を望むセルビア人勢力と、独立を目指す政府側との対立が武力衝突へと発展し、民族浄化や都市の包囲戦など、深刻な人道危機が引き起こされました。

紛争の年表

1992年:開戦と民族浄化

  • 2月〜3月: 独立の是非を問う国民投票が実施され(セルビア人はボイコット)、ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立を宣言。
  • 4月: 欧州共同体(EC)やアメリカ合衆国などが独立を承認。直後から首都サラエヴォがセルビア人勢力に包囲され、長期に及ぶ「サラエヴォ包囲戦」が始まる。
  • 5月以降: ユーゴスラビア人民軍(JNA)の支援を受けたボスニア・セルビア人勢力が、ボシュニャク人市民への攻撃や強制移住といった「民族浄化」を本格化。国連安保理も、セルビア・モンテネグロへの経済制裁を決議した。

1993年:国際社会の対応

  • 2月: 旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)が設立され、紛争中の戦争犯罪を裁く訴追体制が整えられる。
  • 4月〜5月: セルビア人勢力の攻撃にさらされていたスレブレニツァなど6地域が、国連安保理によって「安全区域」に指定される。

1994年:ムスリム・クロアチア連合の結成

  • 2月: サラエヴォの市場への砲撃(マルカレ虐殺)を受け、NATOがセルビア人勢力に最後通牒を突きつけ、空爆を警告。
  • 3月: ボスニア政府とボスニア・クロアチア人勢力が「ワシントン合意」に調印し、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を樹立。それまで対立していた両勢力が、セルビア人勢力に対して共闘する体制が生まれた。

1995年:悲劇の頂点と終戦

  • 7月: 国連の「安全区域」だったスレブレニツァがセルビア人勢力に陥落。男性・少年ら約8,000人が組織的に殺害される「スレブレニツァ虐殺」が発生。第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の大量殺戮となった。
  • 8月〜9月: スレブレニツァ虐殺やサラエヴォへの砲撃を受け、NATOが大規模な空爆作戦(ディリバレット・フォース作戦)を開始。セルビア人勢力を和平交渉の席へと追い込む。
  • 11月〜12月: アメリカ・オハイオ州デイトンでの交渉を経て「デイトン合意」が成立し、ボスニア戦争が終結。同国はムスリム・クロアチア人主体の連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国という2つの構成体からなる国家として再出発することになった。

紛争の影響とその後

  • ボスニア戦争による死者は推定10万人に上り、数百万人が家を追われる難民・避難民となりました。
  • ICTYは、カルジェジッチ元ボスニア・セルビア人指導者やムラジッチ元軍司令官をはじめ、多くの人物を戦争犯罪・人道に対する罪で起訴。両名とも後に逮捕され、有罪判決を受けています。
  • ボスニア・ヘルツェゴビナでは現在も、戦後復興、経済開発、そして各民族間の和解という課題に直面しており、国内政治には民族ごとの分断の影響が色濃く残っています。

ボスニア危機は、民族主義がもたらす惨禍と、国際社会による介入の難しさを浮き彫りにした歴史の教訓として、今なお世界中の人々の記憶に刻まれています。