はじめに
古代の土地制度は、天皇を中心とする統治体制の重要な柱であり、国家財政にも大きな影響を及ぼすものでした。
土地制度は社会情勢と密接に結びついているため、政治だけでなく、経済や法制の発展など、さまざまな要因が絡み合います。
古代における税の中心は、稲などの穀物による納付でした。
税がきちんと徴収できるかどうかは、古代も現代も国家財政にとって大きな課題です。そのため、効率よく税を集めるために、土地制度には時代ごとにさまざまな工夫が凝らされてきました。
公地公民制のはじまり
公地公民制とは、大化の改新の詔が発布された後に打ち出された原則です。
それまでの土地は私地であり、有力な豪族たちが自らの土地と人民(私地私民)を所有していました。
私地から公地へと方針が大きく転換した背景には、618年の唐の成立があります。
すでに強国であった隋に代わって、さらに強大な唐王朝が誕生すると、東アジアの情勢は一変しました。そこで中大兄皇子と中臣鎌足は、日本もまた天皇を中心とした中央集権国家を作り直さなければならないと判断し、乙巳の変や大化の改新といった政治改革を実行したのです。
こうした世界情勢の中で、新しい土地制度が生まれました。
大化の改新の詔では、天皇と豪族による私地私民の廃止が第一に掲げられ、第三条には戸籍と計帳を作成し、新たな班田収授の方法を定めることが記されています。
その結果、統一的な税制度(租庸調)が確立され、口分田を農民に支給する班田収授法(口分田の給付制度)が整備されました。
租庸調と班田収授法の詳細については、こちらの記事をご確認ください。
三世一身法
しかし、人頭税に近い重い税負担のため、民衆は次々と逃亡していきました。その結果、班田として与えられるべき口分田は荒廃し、税を納めるための口分田そのものが不足する事態に陥ります。
この状況に着目した長屋親王は、722年に口分田の不足を解決するべく、耕作可能な土地を大規模に開墾する「百万町歩開墾計画」を立案しましたが、思うような効果は得られませんでした。
そこで723年、三世一身法が発布されます。
その内容をまとめると、以下の通りです。
- 開墾地の期限付き私有を認める
- 新しい灌漑施設を整えて開発した場合:3世代にわたって所有できる
- 従来からの灌漑施設を利用した場合:1世代のみ所有できる
つまり、自ら開墾して税を納めるのであれば、孫の世代まで土地の所有が認められるという仕組みです。一方、すでに灌漑機能を備えていたものの、逃亡などによって荒廃した田を開墾して利用した場合は、1世代だけ期限付きの所有が許されました。
この政策により民間の手による新たな田の開発が期待されましたが、効果は一時的なものにとどまり、所有期間の満了後には再び口分田が荒廃してしまい、大きな成果は得られませんでした。
墾田永年私財法
三世一身法では不十分だったため、さらなる改革が行われます。
それが743年の【墾田永年私財法】です。
史料を確認すると、次のような内容が読み取れます。
- 開墾地の永久私有が保証された
- 位階に応じて開墾できる面積に上限が設けられた
この制度は、土地の開発者として貴族・大寺社・地方の豪族を想定して構想されたものです。
この制度は765年に一度禁止されますが、772年以降は再び永久私有が認められるようになります。その結果、【公地公民制】は崩壊へと向かいました。
墾田永年私財法のもとで、貴族・大寺社・地方の豪族が土地の開発や買収などを通じて獲得した「別業」(荘)と呼ばれる私有地こそが、初期荘園です。
その形態としては、所有する土地の一部を小作人に貸し出し、使用料を徴収して経営するものでした。こうした初期荘園は、貴族・大寺社・地方の豪族によって運営されていきました。