近代戦争史に燦然と輝く激戦のひとつが、日露戦争です。
なかでも日本海海戦(バトル・オブ・ツシマ)は、日露戦争の勝敗を決した決戦とされ、その後の日本海軍の転換点となった海戦として知られています。
極東へ向かうロシア・バルチック艦隊
1905年1月1日、日本軍は旅順を占領してロシア太平洋艦隊を撃破し、当初の目標を達成しました。しかし、それより前の1904年10月15日、ロシアは増援としてバルチック艦隊を極東へ派遣する航海をすでに開始していました。
バルチック艦隊は、旅順陥落の報を受けた後も、極東海域の制海権を掌握し、満洲方面の陸戦を支えるために極東へと向かいました。
「バルチック艦隊来襲」の情報を得た日本軍は、旅順占領後に同艦隊殲滅へ向けた準備を本格化します。約3か月間の猛訓練によって各艦隊の砲撃技術と水雷戦術を大幅に向上させ、戦艦をドック入りさせて整備を施しました。
極東におけるロシア艦隊の根拠地はウラジオストクしかないため、ロシア艦隊は①対馬海峡から日本海へ北上するか、②太平洋側を迂回して津軽海峡、③宗谷海峡を通る――の3つの航路が予測されました。
日本軍はこのうち対馬海峡経由を選んで待ち構えましたが、予定日を過ぎてもロシア艦隊が発見されず、津軽・宗谷海峡突破の可能性も検討し始めます。しかし、東郷平八郎司令長官の決断により、引き続き対馬海峡で待機することが決まりました。
1905年5月27日 午前4時45分、済州島付近を哨戒中だった「信濃丸」がバルチック艦隊を発見します。
「敵艦隊見ユ。対馬海峡ノ方ニ向ヒテ航行セントス」――この電報が旗艦「三笠」に届いたのは午前6時。直ちに全艦隊へ出撃命令が下されました。
日本連合艦隊は、日露戦争の行方を左右する決戦へ向けて全艦を出動させます。午後1時39分、連合艦隊はバルチック艦隊を視認。距離は約13キロメートルでした。
「皇国ノ興廃此ノ一戦ニアリ。各員一層奮励努力セヨ」――この有名な言葉が刻まれたZ旗が三笠に掲げられました。午後2時ごろ、北側から西南西へ進む日本艦隊に対し、ロシア艦隊は反航態勢で北東へ進みます。
ロシア艦隊を驚愕させた「東郷ターン」とは!?
このまま進めば、短い反航ののち長い追撃戦になるはずでした。ところが日本艦隊は思い切って左へ舵を切り、あの有名な「東郷ターン」を敢行します。別名「丁字戦法」とも呼ばれる戦術です。
簡単に言えば、「敵艦の進路を塞ぐように移動し、一斉射撃を浴びせる」というもの。古くから海戦の基本とされてきた有名な戦法であり、東郷平八郎の考案ではありません。
この作戦のポイントは、攻撃できる方向にあります。歩兵や戦車なら進行方向への攻撃が最も有効ですが、艦船の場合、火力が最も発揮できるのは進行方向に対して左右の舷側です。船の構造を見れば、その理由は一目瞭然でしょう。
ただし、この作戦の最大の難点は「海上で行われる」ことにあります。風向きや波を考慮しなければならない状況下で、正確に敵艦の側面へ回り込むのは至難の業でした。
理論上は最強でも、実用性はないと見なされていたのです。誰もが「成功しても、回り込む側が横から撃たれて終わり」と考えていました。実際、この機動を目にしたロシア側は「日本艦隊は大混乱に陥った」と反応したといいます。成功率の低さゆえ、「東郷ターン」と呼ばれた戦法なのです。
しかし、これは決して無謀な賭けではありませんでした。東郷司令長官と秋山真之参謀は、1904年8月10日の黄海海戦で同じ戦術を試みて失敗した教訓を踏まえていました。
黄海海戦での失敗から生まれた改良策が「敵艦隊の針路先を先押さえする」こと。具体的には、機雷作戦と連携して「敵艦隊に機雷原へ突入するか、砲撃を受けるかの選択を迫る」というものでした。しかし決戦当日は天候に恵まれず、この作戦は実施できません。
そこで次の改良策として採られたのが、駆逐艦を活かして敵の死角を突く戦術です。日本連合艦隊の俊敏性を武器に、強引に敵を同一針路へ持ち込むことを決めたのです。
日本海海戦の開幕
ロシア艦隊と並走して数分後、両艦隊の距離は7~8キロまで縮まり、ロシア艦隊が日本艦隊への砲撃を開始しました。日本側にも開戦命令が下され、旗艦三笠の発砲によって壮絶な砲撃戦が始まります。
約1時間に及ぶ日露両艦隊の砲撃戦では、ロシア戦艦よりも高速だった日本艦隊が次第にロシア艦隊の先頭へ追いつき、主導権を握りました。先頭に立っていた三笠は、バルチック艦隊30隻以上を右舷に望む絶好のポジションを獲得したのです。
その後、戦闘は日没まで続き、夜に入っても戦果は拡大。夜明け前の夜戦でも、駆逐艦と水雷艇がロシア艦隊にさらなる打撃を与えました。
そして翌28日午前10時34分、残存するロシア艦隊はついに日本へ降伏しました。
主力艦隊の規模がほぼ拮抗した日露両軍が戦った決戦「日本海海戦」において、ロシア側は21隻が沈没、6隻が投降し、合計27隻を喪失。最終的にロシア領へ帰還できたのは、巡洋艦5隻、駆逐艦2隻、特務艦2隻のみでした。
一方、日本の損害は水雷艇3隻にとどまり、日本海海戦は日本海軍の完全勝利として幕を閉じました。この結果、ロシアが継戦を断念したことは、いうまでもありません。
バルチック艦隊の敗因とは?
最新鋭艦4隻を擁していたバルチック艦隊が、日本海で突如として消滅したという事実は、イギリスやアメリカといった列強国を驚愕させました。ここでは、ロシア艦隊が敗れた原因を考察してみましょう。
長期航海による疲弊
バルチック艦隊は1904年10月15日から1905年5月27日まで、半年以上にもおよぶ航海を続けていました。極東への航海中、旅順を攻略した日本軍への恐怖が、乗員たちの心に潜在的に広がっていたといいます。
さらに、ベトナムのカムラン湾出港後はウラジオストクまで寄港できないため、各艦は石炭や大量の物資を積み込んだ過積載状態でした。その結果、喫水線より上の部分が低くなり復元性が低下。これが日本海海戦での沈没につながったのです。
※復元性とは、水面に直立している船が平衡状態から傾けられたとき、元の姿勢へ戻ろうとする力のこと。
また、長期航海では船底に付着する貝やフジツボを、およそ2か月に1度除去する必要があります。これはドック入りしてしか行えない作業であり、航海中に港を確保できなかった艦隊には不可能でした。そのため艦隊は、半年間で着実に速度を落としていったのです。
加えて、燃料に良質な無煙炭を使用できなかった結果、速力の低下に加えて黒煙の発生という形で、敵に自艦の位置を知られる要因ともなりました。
兵士編成の違い
当時のロシアでは、貴族出身の将校が平民出身の兵士を支配する構図が存在していました。
それは単なる上官と部下の関係ではなく、主従関係にも似た軍隊であり、対立や非効率が頻発していました。この時期、ロシア革命へとつながる自由思想の芽が育ち始めており、無能な上官への反感が士気を著しく低下させていたのです。
さらに、ロシア海軍の最精鋭の水兵は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は劣るとされていました。
半年の長期航海で疲弊しきった艦隊は、日本軍との戦闘を避けてウラジオストクへ回航し、休息を取ったうえで改めて対峙するつもりでした。そのため、日本の戦艦と相対しても、終始防御的な態勢を崩せなかったのです。
その結果、自軍に有利な状況で戦闘を行えなかったと語られています。
日露戦争後、東郷平八郎はバルチック艦隊の弱点を指摘し、こう述べたといわれています。
「誤りは、ロシア艦隊が二列縦隊で来たことだ。しかも弱い第二艦隊が手前にいたため、敵が展開を完了する前に痛打を与えることができた。もし単縦陣で来ていれば、あのような成果は得られなかっただろう」