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【徳川綱吉】悪政と言われた「生類憐みの令」を発布した将軍の実像とは?

江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)。

江戸時代の歴代将軍15人のなかでも、名前を聞けばピンとくる有名な人物ではないでしょうか。

名前だけだと似たような人物が多く混乱しがちですが、「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」と言えば思い出す人も多いはずです。

そう、「犬を大切にせよ!」であまりにも有名なあの法令です。

ただし保護の対象は犬だけではなく、猫や鳥、さらには貝や虫にまで及びました。

しかし実際のところ、生類憐みの令は評判が悪く、「天下の悪法」とも呼ばれています。

そのため綱吉自身も「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれ、決してイメージの良い将軍ではありませんでした。

ですが、イメージはあくまでイメージ。ここでは本当の徳川綱吉の姿をご紹介します。

徳川綱吉とはどんな人物?

【徳川綱吉】悪政と言われた「生類憐みの令」を発布した将軍の実像とは?

1646年、3代将>、3代将軍・徳川家光の四男として江戸城で生まれました。

5歳頃に父・家光が亡くなり、長男の徳川家綱が第4代将軍に就きます。

15歳頃には館林藩(群馬県)の藩主となり、居城を持つ身分となります。ただし綱吉は基本的に江戸で暮らしており、館林を訪れたのは一度きり。しかもそれも日光参拝の帰り道に立ち寄っただけという話です。「せっかく近くまで来たんだから、ちょっと寄っていこうか」くらいの感覚だったようですね。

34歳頃、4代将軍・家綱が亡くなります。家綱に子どもがおらず、綱吉の兄2人もすでに他界していたため、綱吉が将軍に擁立されることになりました。人生、どこでどうなるかわかりません。

将軍となった綱吉は、家綱時代に専横を極めた老中・酒井忠清を罷免します。綱吉は忠清をひどく嫌っており、「下馬将軍(げばしょうぐん)」(将軍気取りという意味)とまで呼び、最終的には酒井家の城や屋敷を没収しようとしたほどでした。忠清が1年後に亡くなると、なんとその墓まで掘り返させたといいます。相当な恨みだったのでしょう。

そして綱吉は、家綱時代に低下した将軍の権威を取り戻すことに尽力します。

戦国の殺伐とした空気がまだ人々の中に残っていたため、これを一掃しようと、礼法・法・学問を重視して秩序の安定を図りました。

綱吉自身も学問好きな人物で、この時代には多くの学者が輩出しました。松尾芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門といった文化人も皆、この時代の人々です。名前を知っている方も多いのではないでしょうか。

さらに、「暴れん坊将軍」で有名な8代将軍・徳川吉宗も、この時代の政治を参考にしたと言われています。

つまり綱吉は、将軍としての前半期こそ実に評判が良かったのです。

ところが38歳頃、老中・堀田正俊が若年寄の稲葉正休に刺殺される事件が起こります。

遺恨によるものとされていますが、裏では綱吉と堀田が「生類憐みの令」をめぐって対立していたことによる暗殺説も囁かれています。

この一件以降、生類憐みの令をはじめとする「悪政」と呼ばれる政治が相次ぐことになります。つまり前半の「善政」は、老中・堀田正俊の補佐があってこそだったということですね。

63歳で病死します。正月の餅を喉に詰まらせ、無理をして体調を崩したのが原因という説もあります。

そしてその直後、生類憐みの令は廃止されました。待ち望んでいた人が多かったのでしょうね。少し悲しいものがあります。

再評価が進む綱吉の評価とは?

綱吉は「生類憐みの令」などの悪政で民を苦しめた将軍というイメージが強いですが、近年、再評価が進んでいます。

将軍になる前、綱吉は次のように助言しています。「上に立つ者は本業をおろそかにしてはならず、民を甘やかしてもならない。偽りの政治家は民に信頼されず、偽りの政治家もまた民を疑う。何事も起こらぬよう意思疎通を図り、家来に丸投げするのではなく、代官たちには自ら職務を行わせよ!」

しっかりとした政治理念を持った人物だったと言えるでしょう。

生類憐みの令については、綱吉になかなか世継ぎが生まれなかったため、高僧に相談したことがきっかけとされています。その際「前世で生き物を手にかけてきたために世継ぎが授からないのだ。だから生き物を大切にしなさい。特に戌年に生まれたのだから、犬を大切にしなさい!」という理由で発布されたと言われてきました。

しかし近年、新たな説が登場しています。それが「民衆意識改革説」です。

江戸時代に入り太平の世となっても、戦国の荒々しい風潮は簡単には拭い切れませんでした。

そこで綱吉は考えたのです。動物を通じて、人々に「命の尊さ」を教えようとしたのではないか、と。

もしこれが真実なら、彼は非常に深慮遠謀な将軍だったことになります。そして生類憐みの令も、時代に先駆けた先進的な法令だったのかもしれません。

まあ、民に浸透しなければ意味がないのですが……。

また、綱吉には不運に見放された面もあります。将軍在職の後半期には天災が相次いで発生しました。大飢饉、大火事、地震、噴火など。
なんと富士山まで噴火します。しかも富士山噴火史上最大規模(宝永の大噴火)です。

当時、こうした大災害は「君主の徳が足りないために起こる天罰」だとされていました。現代ではまったく関係ないとわかっていますが、当時の人々にとっては綱吉の評価を大きく下げる要因となってしまったのです。

興味深い話もあります。今なお人気の「忠臣蔵」や「水戸黄門」はこの時代の物語ですが、綱吉は敵対的な将軍として描かれています。『水戸黄門』のモデルである徳川光圀は、生類憐みの令に大反対だった人物です。

これはドラマによって作り上げられたイメージなのかもしれません。

綱吉がやっていたその他のこと

綱吉は「能」をこよなく愛した人物です。

もちろん自分でも舞い、側近や大名にまで無理やり舞を仕込んでいたそうです。直前に命じられるため、皆慌てて練習したとか。迷惑な話です。

一方で、廃れていた古曲の復興にも力を注ぎました。これは後世に残る立派な功績です。ワガママささえなければ、きっと愛された人物だったでしょう。

また、今ではおなじみの「七五三」は、息子・徳松の健康を願って始まった行事だと言われています。

まとめ

こうして見ると、多くの人が抱いていたイメージとは少し違ったのではないでしょうか。

天下泰平を実現しようと懸命に苦心した人物の姿が浮かんできます。

おそらく理念そのものは良かったものの、やり方に問題があったのでしょう。

突然「犬を大切にせよ!」と言われて、誰も簡単にはついてこられませんよね。