「前漢の武帝(漢武帝)が整備した官吏登用試験は、貧しい身分の人々にも立身出世の道を開いた」という説があります。しかし、この主張は誤りです。実際には、当時の官吏登用の仕組みは、むしろ富裕層や権力を持つ家柄の人々に有利に働くものでした。
結論:貧困層に有利だったというのは「誤り」
漢武帝の時代に行われていたのは、後世の科挙のような統一筆記試験ではなく、「察挙(さっきょ)」と呼ばれる推薦制度でした。この制度の構造上、貧しい庶民が抜擢されるハードルは非常に高く、結果として富める者・権勢ある者の登用につながりやすかったのです。
漢武帝が整備したのは「察挙制」
察挙とは、地方の長官や中央の高官が「孝廉(こうれん)」=親孝行で清廉な人物や「賢良方正(けんりょうほうせい)」=有能で正直な人物などを朝廷に推薦し、皇帝の前での質疑応答(対策)を経て官職に登用する制度です。紀元前134年頃に儒学者の董仲舒らの建言をもとに本格化しました。
なぜ富裕層・権力層に有利だったのか
1. 推薦を得られる人間が限られていた
察挙はあくまで「推薦」が前提のため、地方の役人や名士とつながりのある家の出であることが大きな利点となりました。無名の貧しい農民が自力で推薦を勝ち取るのは極めて困難でした。
2. 学問の習得に多額の費用がかかった
推薦を受けるためには儒教の経書を学んでいることが事実上必須でしたが、当時の書物は高価で、教師への謝礼なども含めると、経済的余裕のある家庭の子どもしか本格的な学問を受けられませんでした。
3. 太学への入学も推薦が必要だった
紀元前124年に設置された最高学府「太学」も、当初は定員わずか50名の博士弟子員で、郡や国からの推挙によって入学が認められる仕組みでした。ここでも出自と人脈がものを言いました。
科挙との決定的な違い
貧しい出身者でも学力次第で登用されうる本格的な試験制度、すなわち科挙が登場するのは、これより約700年後の隋の時代であり、唐代になって大きく整備されました。「試験が貧困層に門戸を開いた」というイメージは、むしろ科挙時代の話なのであり、漢代の察挙制にそのまま当てはめることはできません。
まとめ
漢武帝が整備した官吏登用制度(察挙制)が貧困層に有利だったという説は誤りです。推薦を得るための人脈、学問を修めるための経済力といった条件から、当時の制度は現実には富裕層や権門に有利に作用していました。身分や財産にとらわれない公平な選抜が実現したのは、遥か後の科挙の発展を待つ必要があったのです。