奴隷州でありながら連邦に残った「境界州」
アメリカ南北戦争(1861年〜1865年)当時、デラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州の4州は、奴隷制を合法とする「奴隷州」でありながら、南部連合(アメリカ連合国)には加わらず、連邦(北軍)側に留まりました。これらの州は「境界州(Border States)」と呼ばれ、その去就は戦争の行方を左右するほど重要でした。
ここでは、各州が脱退しなかった理由を詳しく見ていきます。
デラウェア州――北部との深い経済的結びつき
デラウェア州は奴隷州でしたが、連邦からの脱退を選びませんでした。その主な理由は以下の通りです。
- 北部との強い経済的結びつき:近隣のペンシルベニア州やフィラデルフィアとの商業関係が密接で、経済的に北部と一体でした。
- 小さな州としての限界:国土が狭く人口も少なく、独立国家として生き残ることは現実的ではありませんでした。
- 連邦による侵攻への恐れ:北部に四方を囲まれる位置にあるため、脱退すればただちに連邦軍の占領を受けることは明らかでした。
また、1860年時点の奴隷人口は約1,800人と州民の2%にも満たず、奴隷制への依存度自体が極めて低かったことも、世論が分裂しなかった大きな要因です。
ケンタッキー州――「武装中立」から連邦側へ
エイブラハム・リンカーン大統領の出身地でもあるケンタッキー州は、戦争当初こそ「武装中立」を宣言してどちらの陣営にも加わりませんでした。しかし、最終的に連邦側に留まった背景には次の要因があります。
- 圧倒的に多い連邦支持者:州民の大多数は連邦支持(ユニオニスト)であり、脱退派は少数派にとどまりました。
- 北部との経済的結びつき:オハイオ川を通じた貿易により、農産物の主要な取引先は北部でした。
- 南軍の侵攻が決定打に:1861年9月、南軍がケンタッキーに侵入したことで中立は崩壊し、州議会は連邦支持を明確化しました。
リンカーンは「神が我々の味方であることを望むが、私はケンタッキーを失うわけにはいかない」と語ったと伝えられており、同州の戦略的重要性がいかに大きかったかを物語っています。
メリーランド州――首都ワシントンを守る戦略的要衝
メリーランド州は、首都ワシントンD.C.を北と東から取り囲む極めて重要な位置にありました。連邦に残留した理由は以下の通りです。
- 北部との強い経済的結びつき:ボルチモア港の商業活動は北部との交易に大きく依存していました。
- 多数の連邦支持者:特に西部や山岳部では連邦支持が強く、州全体でも脱退派は過半数に達しませんでした。
- 南北の緩衝地帯という立地:もしメリーランドが脱退すれば、首都ワシントンが南部勢力に包囲される事態になりかねませんでした。
1861年4月のボルチモア暴動の後、リンカーン政権は戒厳令を敷き、人身保護令状の停止や分離派議員の逮捕といった強硬策に出ました。こうした連邦の断固たる対応も、同州の残留を後押ししました。
ミズーリ州――激しい内戦状態の中での連邦支配
ミズーリ州は境界州の中でも最も混乱が激しく、事実上の内戦状態に陥りました。それでも連邦側に留まった理由は次の通りです。
- 北部との経済的結びつき:セントルイスなどの都市はミシシッピ川・ミズーリ川の水運を通じて北部経済と深く結びついていました。
- 連邦支持者の多さ:州北部の農家やセントルイスのドイツ系移民コミュニティなど、連邦支持層が州のかなりの部分を占めていました。
- 連邦軍の迅速な制圧:1861年初頭、北軍はセントルイスの武器庫を確保し、州内の主要拠点を掌握。同年8月のウィルソンズ・クリークの戦いで南軍が勝利したものの、州の実効支配は連邦側が維持しました。
結果として、ミズーリ州には連邦支持の州政府と南部寄りの亡命政府が並立する異例の事態となり、ゲリラ戦が終戦まで続きましたが、正式には連邦の一員として留まり続けました。
まとめ――4州に共通する要因
デラウェア、ケンタッキー、メリーランド、ミズーリの4州が奴隷州でありながら連邦に留まった背景には、次の共通要因があります。
- 北部との強い経済的結びつき――貿易や交通の面で北部への依存度が高かった
- 連邦支持者の多さ――州民の多くが合衆国の統一を支持していた
- 連邦による介入や侵攻への懸念――地理的に北部に近く、脱退すれば軍事的報復は避けられなかった
- 戦略的な重要性――連邦にとってこれらの州の喪失が許容できなかった
これらの境界州が連邦に残ったことは、北軍にとって人的・物的資源の確保だけでなく、首都ワシントンの防衛という観点からも決定的に重要であり、南北戦争の帰趨に大きな影響を与えました。